しなのさかいの駅前広場

久しぶりにワクワクする発表でした。

名古屋発20時42分

「『神奈川県鎌倉郡小坂村』の謎」編からつづく)





敦賀市役所と市立図書館を行ったり来たりしてしまいましたので、少々くたびれました。
そんなところで都合よく、市役所の隣には「敦賀ヨーロッパ軒 中央店」があり、そこでランチ休憩とすることに。
この旅行でグルメ情報を流すことができたのは、初日の「豚々亭」だけだったと思うので、最後にこんな画像も良いでしょう。
といっても、同じ「豚」なんですけど。
ソースカツ丼、おいしかったですよ。
キャベツがあると色どりがもっと良くなると思いますけど、これで長い間支持されているようなので。

店内は、昔のデパートの最上階によくあった食堂、といった雰囲気。
明らかに「敦賀へは出張で来た」と思われる方々が、地元の営業所員に案内されて訪れていました。





レンタサイクルですので、思い出づくりにと考えて、市内をフラフラと。
市立博物館(元 大和田銀行)の建物を見たり…
ここは大和田伸也氏のゆかりのある銀行だったそうですね。





そこから続く古い町並みを見て。
それにしても、1人も歩いていません。
お店もポツポツと営業している程度で、閉まっているお店の方が多いみたいでした。
ゆえに、観光地というには少々厳しいかもしれません。
徒歩でここまでたどり着いていたら、体力の消耗と相まってガッカリしていたことでしょう。





まあ、当方は鉄道が好きですから。
鉄道スポットがあれば、とりあえずは行く訳ですよ。
そういう訳で、旧敦賀港駅舎までやってきました。
ココは、1999年の「つるが・きらめきみなと博21」の開催に合わせて再現された建物で、その外観は、1913(大正2)年竣工当時の姿だそうです。
中には、北陸本線に関係した資料が展示されていて、鉄道ファンならば楽しめる内容でした。
ただし、長浜鉄道スクエアと比べると見劣りはしますが。
あちらはすごいですよね。
なにせED70とD51が丸ごと収納されているのです。





ところで、この日の相棒を紹介しておきます。
つまり、観光協会で借りたレンタサイクルです。
電動アシスト付きの自転車なのに、全体的にゴツくて、なんとなく戦前の自転車みたいでした。
バッテリーを失うと、とても重くなるので、スイッチをオンオフ切り替えながら「持ち」を気にして走りました。
と文句のようなことを書きましたが、こうしたサービスが用意されていることは素晴らしいのです。
街に回遊性を持たせるためには、まずは手っ取り早くレンタサイクルでしょう。
周遊バスとか、そういうことは考えなくてもできるのです。





旧敦賀港駅舎の裏は敦賀湾。
海上保安庁の巡視船が係留されていて、ココが日本海であることがわかります。
山はところどころ白く、関西との気候の違いは明らか。
「越前」という国名の響きがこうした風景を表しているように思います。

なお、敦賀港は港湾法上の重要港湾、さらには特定港として指定されており、特に後者については常に外国船舶の入港が可能という意味を持っています。
軍事目的では舞鶴港がその役割を担っていますから、海上自衛隊の艦船は見当たりません。





そこから、さらにすぐ近くにある敦賀赤レンガ倉庫へ。
1905(明治38)年に石油貯蔵倉庫として建設されたそうで、2009(平成21)年に国の登録有形文化財になりました。
手前の倉庫は「レストラン館」で、奥の倉庫は「ジオラマ館」と称した鉄道模型ジオラマが有料で展示。
当方に限っては、あいにく鉄道のジオラマは間に合っているのでスルーです(笑)





明治38年のレンガ。
レンガは、見ていると落ち着ける不思議な素材です。

さて、ココは敦賀市の観光の拠点として活用されていくようですが、現状としては観光バスの休憩施設となっているようで、当方が見学している間に訪れていた団体客も、許された滞在時間は短そうでした。
入居するテナントも、地元のスイーツやレストランといった、食べ物をメインとした流行りのサービスエリア風であり、建物に入った瞬間に「買うものは何もないな」と判断できるほどで。
「じゃあ隣の建物に…」と思ったら、それが有料のジオラマ展示ですから。
行き場がすぐになくなる訳です。
地元との交流ができるような使途が備わると、もう少し面白くなりそうですね。
今後の展開に期待しましょう。







さらに敦賀港駅跡に行くと、トミックスが最近発売したISO 20ftコンテナがたくさんありました。
これだけ積まれているとすごいです。
近年、敦賀港はコンテナの取扱量が増えているそうで、これらもそうした中の一つなのでしょう。
ただし、ここからはトラックやトレーラーで運ばれて行きます。





おなじみの12ftコンテナも。
貨物の取り扱いはあるのに、「オフレールステーション」ってなんだか不思議ですよね。





そしてこれが敦賀名物(?)の「敦賀港駅ランプ小屋」。
1882(明治15)年完成で、旧長浜駅舎と並んで我が国の鉄道建築物としては最古のものだそうです。
2014(平成26)年にJR貨物から敦賀市へ寄贈されたとのことですから、それまで解体もされずによくぞ残っていたと思います。

明治15年というと、前述のとおり曽祖父の少年時代に当たります。
この場所にきて何かピンときたものがあったんでしょうか。
わかりませんけどね。





金ヶ崎・敦賀港へ続いていた線路は、このように閉塞されていました。

この何気ない線路について少しだけ余談を。
1906(明治39)年には敦賀-ウラジオストック間の定期航路が開設。
1912(明治45)年6月15日の時刻改正で、新橋-金ヶ崎間に直通列車が設定されたそうです。
新橋って、東京の新橋ですからね。
そことの直通列車です。
さらに、1919(大正8)年には「敦賀港(つるがみなと)」に改称。
その後、第一次世界大戦中には欧亜連絡運輸が廃止されましたが、1927(昭和2)年になると東京-敦賀間に1・2等寝台車の直通が復活しました。
マイロネフ37、マロネフ37などが充当されていたそうです。
「マイロネフ」っていう客車があったこと自体は知っていましたが、この頃にこんな場所へ行く乗り物だったんです。
なんだか「夢」のある「昔話」で、いいじゃないですか。

しかし、2009年3月31日限りで列車は走らなくなりました。
今後、この辺り一帯は敦賀市による鉄道をテーマとした整備構想があり、2018年度予算にはキハ28を購入する予算を盛り込んだそうです。
既にJR西日本とは、トワイライトエクスプレスの部品の譲渡を受ける協定も結んでいるとのことでありますから、今後の敦賀市の
「鉄分」に期待しましょう。

https://toyokeizai.net/articles/amp/210508?display=b&_event=read-body



□          □          □



気分としては、ここら辺まで来て「おしまい」でした。
今こうして振り返ってみると、ここから先は「帰り道」という意識に切り替わっていたような気がします。
寂しいけど仕方がありませんね。
今、こうして書いていても再び寂しさがこみあげてくるようで、不思議です。









駅へ戻らなければなりません。
途中、郵便局に寄りながら自転車で走りました。
閑散とした敦賀市内を。

それにしても、明治から昭和初期にかけて、欧州への連絡口として繁栄した面影は…、残念ながらありませんでした。
2016年に訪問したときは、郊外のバイパス沿いに東京近郊のそれと同じような景色が広がっていて、様々なロードサイド店がありましたから、どこか街づくりが「おかしなこと」になってしまっているんでしょう。
様々な地方都市でも同じような課題を抱えていることと思います。
北陸新幹線がやってくるまでに、こうした課題が解決されるといいのですが。





敦賀駅まで戻ってきました。
駅前もどこか寂しさが漂っていて、かつての鉄道の要衝だったとも思えません。
北陸新幹線によって、敦賀は関東の人たちにどう映るのでしょうか。
その開業予定は2022年度だそうです。
そんなに遠い未来ではないでしょう。


おみやげをいろいろ買い込んで、レンタサイクルを返却して、改札口へ。
さあ、ここからは名古屋までの在来線ミニトリップ。
帰り道ではありますが、楽しめることに化かすのは得意ですから、前向きに。





まずは第1ランナーで長浜まで。
前述のとおり、この日は爆弾低気圧の影響により特急「しらさぎ」が終日運休となっているため、普通列車での移動にならざるを得ませんでした。
ホームに待っていた長浜行きは521系。
それも、カトーが製品化した2次車でして、2両編成でした。
買った車両に乗れるというのはワクワクするというか、「俺、これ持ってるー!」と心の中で叫ぶというか、子どもっぽいワクワク感があります。
この日ももちろんそうでした。
223系5000番台と同じ(?)貫通路がある顔立ちは、さらに転落防止幌や貫通幌がつくと厳つくてカッコイイ。
これこそ「機能性の美」っていうやつですよ。
2セット買って4両編成にできるようにして正解でした。





よく見ると、485系とか489系という表示がありました。
名残はあるのです。


16時4分、発車。
新疋田を通って、越前と近江の国境越え。
2016年には、この国境を国道8号で越えましたが、今回は北陸本線でした。
国境越えというのは大きなイベントです。
車窓を眺めて、とても充実した時間を過ごしました。





16時54分、長浜到着。
521系から降りた乗客は、ほとんどここで第2ランナーの223系2000番台4両編成に乗り換えて米原へ向かいました。
乗換え時間は、僅か3分。
なぜか4両編成の223系には縁がある日でした。
これをもって脳内では、223系の4両はすなわち滋賀県内の姿、ということにしちゃいました。





16時57分に長浜を出ると、やがて琵琶湖が見えてきて、並走する車が。
奥が海に見えて実は湖であるところが、この地方の不思議な風景です。





そして17時10分、米原到着。
223系2000番台の前8両が待機していて、そこへ長浜から来た4両が連結。
新快速は12両化され、これから京都・大阪・神戸へ向かうはずです。
長浜と米原の間は12両に対応していないため、短い区間を短い車両で対応しないといけないみたいです。

もう一度そっちに戻りたいところだけど、残念ながら当方はここでJR西日本エリアとお別れ。
さらばJR西日本、さらば関西(何回もすみません)。





JR東海の311系が各駅運用で米原まで入ってきました。
さすがは境界駅。
思えば1989(平成元)年のデビューで、JR西日本の221系と並ぶ民営化の旗印のような車両でした。

1991年に名古屋から豊橋まで、新快速運用で初めて乗ったとき、その瞬足ぶりに驚き、たちまちファンとなったことを思い出します。
車内が211系とは違って落ち着いた雰囲気だったという記憶もあります。
ずいぶん前にマイクロエースが製品化しましたが、いわゆる「ダメなほう」で、買ってすぐに手放した苦い思い出があります。
もう時代とネタ的に模型化が望めない車両だとは思いますが、マトモな311系は欲しいです。
それだけ、民営化直後の時代は遠くになりました。





JR東海の313系が待つホームへ移動すると、コンテナ列車が通過していきました。
子どもの頃(国鉄時代)に乗り鉄をしていたときは、こんな風に貨物列車が駅のホームを通過していくシーンに驚いたものでした。
関東ではなかなかない場面でしたから。
何といいますか、「地方の幹線」というムードが満点なのですよ。
コンテナを積んでないコキとかが混ざっていたりするとなおさら。
特に米原駅はイイですね。
Nゲージでもコンテナ列車で積極的に遊ぶことにしましょうか。





さて、とうとうJR東海エリアへ入っていくことになる訳で。
大垣行きの313系は、0番台と3000番台との組み合わせでした。
300番台との組み合わせかと思っていたら、固定式クロスシートの3000番台でしたので、迷わず0番台の方へ移動。
すれ違う米原行きの列車には300番台が連結されていましたから、300番台と3000番台は共通運用なのでしょうか。
よくわかりませんが、313系がデビューした頃を考えると、3000番台が東海道本線を走るというのは、ちょっと意外(認識が誤っていたらごめんなさい)。
まぁ、カトーの313系は全て持っていますから、こうした楽しみ方もできるということを学習したということにしましょう。


そして、ここからは夕暮れ時の醒ヶ井や関ヶ原を通っていきました。
並走する国道を見ていると、以前に車で通ったことを思い出し、さらにはその時に「列車の方がいいな」と考えていたことを思い出しました。
いろいろな縁があって、今度はこうして313系の車内にいるのですから、おもしろいですよね。
それだけ、この大垣と米原の間の「隘路」は大好きな場所です。
よく考えれば、ここも国境越えでした。





濃尾平野に入って大垣。
乗ってきた313系は、そのまま特別快速豊橋行に変身しました。
0番台も特別快速の運用に入っていたんです。
知らなかった。
快速運用は5000番台限定だと思い込んでいたようです。
模型に施されたデフォルトの行き先表示に取り憑かれてはいけない、という典型的な例ですね。

だから、到着前の車内放送をよく聞いていなくて、大垣に着いた途端に降りてしまい大失敗。
座っていた席が必勝席だったのに、他の人に座られてしまい、とても惜しいことをしました。
模型だけで親しんでいると、0番台なんていうのはもう各駅運用しか担っていないように思えてしまい、全くもってダメですねえ。


これで名古屋まで一直線。
途中停車駅は、岐阜と尾張一宮だけです。
たったこれだけ。





名古屋到着です。
鉄道で来たのですから、駅周辺を歩くには自由が利きました。
よって、まず最初にナナちゃんは見ておかないといけないと思い、参拝。
一頃に比べると、衣装がつまらなくなった気もしますがどうなんでしょう。





「敦賀 ヨーロッパ軒」でカツ丼を食べたっきりでしたので、名古屋で夕食を済ませることにしました。
しかし、なかなか目ぼしい食堂や喫茶は夜遅い時間となったため営業時間外。
「1日中モーニング」なんていうところに行こうとしたら、閉まっていました。





新幹線の時間まで大分あったはずなのに、ウロウロ、ウロウロ、そして時間が。
クタクタに疲れ切ったカラダでたどり着いたのは、結局、エスカの「コメダ珈琲店」でした。
もう少しおもしろいところへ行きたかったんですけど、名駅の混雑ぶりが激しくて、思考回路がダウンしてしまいました。
近所にもあるコメダに入るのは、少し敗北感があるけど、名古屋グルメには違いないから(笑)

コメダでは条件反射的にみそかつサンドを注文してしまい、その瞬間「あ、ヒルメシもトンカツだった」と大反省。
油モノを1日に2回も食べてはいけないのです。



30年前の民営化直後は、まだまだ名駅周辺は静かで、20時になるとホームに人影はまばら、エスカは早々に営業を終えてシャッター街と化していたんですが、この混雑ぶりはナニ?
名古屋の人は家に帰るのが早いもんだと思っていたのに、ライフスタイルはすっかり変わってしまったようです。
どこも東京と同じようになっていくのが、旅行者としては残念。
ライフスタイルの違いはあってもいいと思いました。





そして、いよいよ東海道新幹線ホームに。
在来線ホームでは、夜遅くなのに383系がライトを光らせていました。
神領に帰る回送列車でしょうか。

名鉄にも乗っておきたかったと思いながら、それはまた次にしようかと。
そのときは、ぜひとも「アーバンライナー」で大阪難波まで行ってみたいなと思います。





ホームで待っていたら、とうとう「のぞみ254号」の表示が出てしまいました。
暗くて車窓も見えない夜の新幹線に旅のムードなど感じることもできません。
したがって、20時42分で「今回の旅はおしまい」ということになりました。



□          □          □



最初は面倒に思っていた「一人旅」でしたけど、いざ家族に送り出されてみれば、見るもの聞くもの全てが観光の対象であることに気づき、食事もろくにできないほどの時間の使い方となっていました。
それだけ夢中になるほど、今回の乗り鉄の旅には、大きく捉えて3つの収穫があったと思っています。



まず1つ目。
年齢を重ねれば、無意識のうちに蓄えた知識も多くなっているため、どれを見ても、そのビジュアルに意味があるようになっていた、ということです。
例えば、コープこうべの前でおしゃべりするおばちゃんを見れば、震災時のこと、神戸とコープは切り離せない概念であることとか、そういうことに気づいてしまう。
どれもこれも観光の対象となってしまい、それは嬉しい誤算でした。


2つ目です。
今後も鉄道模型を続けていく上で「背景が見える車両」が増えた、ということです。
20年前は、まだまだ模型化されていない車両が多かったですし、JR一辺倒でしたので、JRの主な車両を見て、帰ってからその模型をちんまり楽しむという比較的狭い価値観の中での遊び方でした。
しかし、その後はマイナーな私鉄車両が次々と製品化され、自分のテリトリーがその拡張ペースに追いつかなくなっていたのです。
車両の模型を手にしても、それが無味無臭であったり無機質であったりすると面白くありません。
このことは、自分が買うものに限りませんで、発売され、店頭に並んだ模型を見ることにも当てはまります。
それだけ車両から地域を見つめる視点とその領域を新しく広げることができたような気がするんですネ。


最後に3つ目。
これが一番大きいのですが、2/25~3/1のたった4泊5日の旅行を、こうして1か月以上に渡って振り返らせていただいたことで、旅が1か月間続いていたような、そんな気分でいることができたということです。
デジタルカメラで写真をたくさん撮っても、自宅に帰ってHDDに入れておしまい、ということにしてしまっては、何も発展しません。
1枚ずつ選びながら本ブログにアップさせていただきましたが、写真を選択する過程で、写真で語れること、撮影したときは知らなかったことなどを復習する機会がたくさん生まれました。
だから、今回の旅は、自宅に帰ってから今日までずっと続いていたのです。
そして、皆さんにどんなことを伝えられるのか、そういう思考を重ねる日々は、とても豊かなものでした。
それゆえに、デジタルカメラとiPhoneなどを手にした時代の「乗り鉄」は、発展性を持った面白い趣味だといえます。



という訳で、1か月に渡ってブログを更新し続けました。
お付き合いいただいた方には「感謝」という言葉しか申しようがありません。
もし、ほんの少しでも、当方の価値に寄り添っていただけた部分がありましたならば、それでこの旅日記の目的は達成です。
本当にありがとうございました。




今回の旅の記事のまとめ

【1日目(2月25日)】
「20年後に見る西の世界」(3/4)
「関西漂流(その1)」(3/5)
「関西漂流(その2)」(3/6)
「関西漂流(その3)」(3/8)
【2日目(2月26日)】
「王子公園駅のホームから海は見えるか」(3/10)
「神戸アップダウン作戦」(3/11)
「宝塚自転車駐車場が示す可能性と未来」(3/13)
「RETURN TO SHINKAICHI」(3/15)
【3日目(2月27日)】
「大阪潜入」(3/17)
「日本橋ヒットアンドアウェイ」(3/19)
「ハイタウン石切(前編)」(3/20)
「ハイタウン石切(後編)」(3/22)
「ならまちにて」(3/24)
【4日目(2月28日)】
「音川さんちを訪ねて」(3/26)
「万能電車 京阪800系」(3/28)
「湖西を巡って、再び京都へ」(3/31)
【5日目(3月1日)】
「敦賀で待つもの」(4/1)
「『神奈川県鎌倉郡小坂村』の謎」(4/5)
「名古屋発20時42分」(4/7)






名古屋発20時42分。
これにておしまいとなります。

ではまた。

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  1. 2018/04/07(土) 21:00:00|
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「神奈川県鎌倉郡小坂村」の謎

「敦賀で待つもの」編からつづく)




京都から敦賀まで、223系2000番台によるダイレクトアクセスで簡単に移動できました。
滋賀県主導による北陸本線直流化と「琵琶湖環状線」の構築はこういう利便性をもたらしていたのですね。
さらには福井県側の主導も加わって敦賀以南は交流20,000Vから直流1,500Vへの転換が行われました。
2006(平成18)年10月のことです。


駅前を見渡すと、小雨が降っているようないないような微妙な天気で、タクシーを使うのももったいない気分。
小回りを効かせる必要も出てきそうなので、駅前の観光協会でレンタサイクルを借りました。
最近は、観光を銘打っている地域であればどこでもレンタサイクル事業を展開しているので便利になりました。
鉄道でやってきても、街の探索に不自由はしなくなったということです。





敦賀市役所に到着。
戸籍担当の窓口は、正面玄関を入ってすぐのところにあって、いろいろと目的を説明したら、親切に申請方法を教えてくれました。
敦賀市役所市民課の皆さん、ありがとうございました。



□     □     □



さて、前回の記事で整理したミッションのおさらいです。

①曽祖父の改正原戸籍又は除籍の謄本を敦賀市役所でもらう
②ついでに曽祖父のさらに先代の除籍謄本も敦賀市役所で探してもらう
③本籍地とされている「敦賀町大黒○○○番地」が今のどこなのかを“敦賀のどこか”で調べる

このうち①と②をここ市役所で行うこととなります。
③は後回しです。
当方の戸籍謄本と当方の父親の戸籍謄本も持参していましたのでこれらと、それから運転免許証を添えて、申請書にハンコを押して窓口に提出。
直系であることを証明しないと申請が通らない、ということは予習していました。
窓口の方には、②はないかもしれないと告げられながらも、無事に受理していただきました。





待合席に座り、待つこと15分くらいだったでしょうか。
病院の会計待ちのようにしていたら、自分の名前を呼ばれました。
どうでもいいことですが、越前・敦賀の市役所で、カウンターから自分の名前を呼ばれる体験は、まさに非日常(笑)
もう、どんなことでも感動してしまう旅行でした。


脱線しました。

そこで交付を受けた謄本は、なんと2つ!
①だけでなく、無理ではと告げられていた②まで存在したのです。


②については、曽祖父の先代が戸主の除籍謄本ですから、さらにその先代(前戸主)の「名前」まで遡れました。





曽祖父の先代は天保とか弘化という時代の生まれであることまで記載されていて、少しビビってしまいました。
さらにその先代は…生年月日まではわかりませんでしたが、おそらくそれは1800年代前半なのでしょう。
いずれにしろ、曽祖父の先代も敦賀郡の出身だということで、我が家のルーツはこの地にあるということがはっきりしました。



問題なのは①です。



曽祖父が戸主となっている改正原戸籍が登場。
例の昭和27年製「オール手書き謄本」の元となったものと思われます。
やはり手書き謄本にはその時点で除籍となった内容が記載されていなかったようで、とにかく知らない情報がワンサカ。
そして、そこから読み取れる曽祖父の経歴は、当方の予想を越えたものでした…。



(1)略歴をつくって見てみると…

解読した情報を「曽祖父に起きたイベント」という形に並べ替えて簡単に記してみたら、以下のようになりました。

0歳・明治5年3月14日 出生
25歳・明治30年1月6日 婚姻
26歳・明治31年10月10日 長男出生
28歳・明治33年3月8日 改名
29歳・明治34年4月28日 長女出生
32歳・明治37年8月31日 次男出生(石川県金沢市で受付)
34歳・明治39年12月8日 三男出生(石川県金沢市で受付)
37歳・明治41年12月23日 四男出生
38歳・明治43年2月15日 五男出生(神奈川県鎌倉郡小坂村外一ヶ村組合で受付)
38歳・明治43年7月4日 父死亡(神奈川県鎌倉郡小坂村で受付)により戸主となる
39歳・明治44年7月22日 五男死亡
39歳・明治44年8月31日 六男出生
42歳・大正3年2月2日 次女出生
42歳・大正3年3月9日 六男死亡
43歳・大正4年7月5日 次女死亡(朝鮮平壌府竹園町1番地に於いて受付)
44歳・大正5年7月24日 七男出生(朝鮮咸鏡南道元山府館橋洞鉄道官舎3号の2に於いて受付)
45歳・大正6年10月13日 七男死亡(朝鮮元山鉄道社宅医務室に於いて受付)
46歳・大正7年3月28日 三女出生(朝鮮慶尚南道釜山府草梁洞43-4に於いて受付)
49歳・大正10年3月29日 四女出生(朝鮮平壌府竹園町1番地に於いて受付)
85歳・昭和32年5月30日 熊本県山鹿市南島○○○番地で死亡

なお、49歳以降の足跡は戸籍上で確認することができませんでした。
生まれた子どもたちの、その後の戸籍記載内容で類推できそうですが、それでは検証にならないのでやめておきます。



(2)曽祖父はナニモノ?

さて、43歳から49歳の略歴を見ると、朝鮮半島の地名が続出しており、特に当方が祖母から聞かされていた「平壌」という地名も確認することができました。




「平壌府竹園町1番地」というのは鉄道官舎があった番地のようで(よその方のブログを拝見しました)、その後に続く地名にも「鉄道官舎」「鉄道社宅」とはっきり記載されていました。
おそらく46歳の釜山の土地もそうなんでしょう。
「朝鮮総督府鉄道」の仕事をして、半島の各地を転々としていた、ということのようです。
当方の祖母が言っていたことは、「平壌駅長」であることを置いておいて、概ね事実だったということになります。
ふえー、そうだったのかー。

でも、そうだとすると…
32歳と34歳のところに「石川県金沢市」、さらに38歳のところに「神奈川県鎌倉郡小坂村」という地名があって、これがどうしてもひっかかるんです。
ちなみに後者については、現在の大船にあたるようです。

明治時代ですから、現代のように簡単に転職することなんてありません。
仮に転職していたとしても、その転職先が「朝鮮半島の鉄道員」ですから、それではあまりにも不自然。
だって、そんなところにまで行く理由がないですもん。
しかも、いきなり「官舎」に入居しているのですから、これは普通じゃない。

したがって、石川県金沢市でも、神奈川県鎌倉郡小坂村(大船)でも「鉄道員」あるいは「逓信省職員」として赴任していた、つまり、曽祖父は鉄道員を生業としていたと考える方が妥当だと思いました。



(3)仮に鉄道員であったとして…

鉄道員であったと仮定すると、もう一つの謎が生まれます。
それは「どういう鉄道員だったのか」ということ、なんです。

「金沢」ですから、たとえどんな職種であったとしても、敦賀のような北陸地方で鉄道の仕事に就けば、同地方の鉄道の拠点だったと思われるその地へ赴任することはあったのではないかと、まあ何となく分かるんです。
「金沢鉄道管理局」があった場所ですから。
だから、金沢市にいた事実にはあまりひっかかりがありません。





しかし、今よりも交通が不便で、移動が大変であった明治時代に、実の父親を連れて(おそらく一家で)敦賀(又は金沢)から神奈川県の大船まで赴任している、その理由はどー考えてもよくわからない。
それなりの訳があって、遠くの地へ行くよう命じる辞令が発出されたのではないか。
じゃあ、土地鑑もないはずの大船に赴任しなければならなかった訳って何?
なんで大船? なんで小坂村?

ちなみに、大船「駅」の開業は1888(明治21)年。
横須賀線の大船-横須賀間開業が1889(明治22)年のことで、その1年前のことでした。
ただ、曽祖父がその地へ行ったのは、1907~1910(明治40~43)年頃ですから、開業よりも20年以上も後のことです。
やっぱり謎。

駅務なのか、それとも鉄道技師なのか、そういう違いだけでも判ればいいのですが。
どうもこの辺がモヤモヤしていて、自分の趣味を呪います。
なお、韓国併合後、朝鮮総督府鉄道は半島内の各地方への鉄道敷設を進めていました。


もし、この記事をご覧になって、何か思い当たることがある方がおられましたら是非情報をお寄せください
(といっても時代が古すぎて分かる訳がありませんよね。あはははは)。



□      □      □



時代はまさに『坂の上の雲』の頃。
明治維新と共に生まれて、文明開化の波と共に鉄道員として日本の青春時代を駆け抜けていったのでしょうか。
敦賀に鉄道が敷かれたのは1882(明治15)年3月10日で、北陸本線洞道口(柳ヶ瀬トンネル西口)-金ヶ崎(1919年に「敦賀港」に改称)間の開通とともに、その中間駅として敦賀駅が開業しています(出典:『鉄道ピクトリアル』№821)。
おそらく曽祖父が10歳の頃。
当方も、鉄道模型を始めたのが9歳の頃ですから、多感な頃に珍しい陸蒸気を見て、何らかのテツ・スイッチが入っちゃったのかな?
もっとも、この時代の西洋文明は「家族を養っていく手段」として見つめられていたような気もします。
いずれにしても、妄想は膨らむばかり。



また、歴史的背景から見てみると、子(つまり当方の祖父の兄弟たち)が生まれても次々と他界している点がとても気になりました。
特に1910(明治43)年・韓国併合後の朝鮮半島は、まだまだ公衆衛生が不安定だったそうで、腸チフスやコレラなどが大流行していたそうです。
家族を連れて朝鮮半島に渡り、さらにそこで子をもうけても次々と命を落としていった、その経緯が詳細にわかってしまい、時代の暗さ、厳しさを考えてしまいました。

ちなみに、次女が亡くなった後で三女が生まれていますけど、三女の名前は次女のそれでした。
次女を失ったことがさぞかし無念だったのでしょう。
戸籍というツールで感情のようなことまでわかってしまうという事実そのものが、当方にとっての「発見」となりました。


「曽祖父」や「鉄道」というキーワードに引っかかりながら探索をする気になりました。
しかし、敦賀市役所での発見の後は、徐々に「明治から大正にかけて大冒険をした1人の日本人」という捉え方にシフトしていき、ごく一般論的にこの人物に興味がわいてきました。
何とかしてこの人物像にもう少し迫ってみたい。
ライフワークになりそうな予感がしています。





それから「大黒」という土地については、レンタサイクルで敦賀市役所から敦賀市立図書館に急行して、司書さんの協力を仰ぎながら解読することに成功しました。





現在の津内一丁目付近に該当するとのことであり、幸いなことに1945(昭和20)年の敦賀空襲直前の住宅地図(記憶復元による)も出てきたため、「◯◯◯番地」が現在のどこに当たるのか、その特定にも成功しました。
この頃になると、その番地にはもう別の家族が住んでいたようで、その名はそこにありませんでした。

それにしても、図書館には司書さんが必要ですね。
行政が安易な発想で民間にアウトソーシングしてしまうトレンドには非常に危機感を覚えます。

これにてミッション③もクリア。





その場所へレンタサイクルで急行し、現在の様子をパチリと撮影しました。
おそらく、曽祖父一家は、大船に向かったその時点で敦賀を引き払ってしまったと思われます。
父親は、その大船でこの世を去っていました。


タイミングよく先月の彼岸のときに、敦賀市役所で交付してもらった謄本と共に、当方が作成した簡易な家系図を持参して、叔父宅を訪問。
敦賀プランの復命をしてミッション・コンプリートとなりました。
一番記憶を持っているはずの叔父ですら「えー、ホントかよ」と大声を出していましたから、まずは成功したんだと思います。
知らないことばかりだったようで、なんとなくニヤけていましたから(笑)
曽祖父について「大陸で終戦を迎えたため、それまでの財を失ってカバンひとつで長男のいる九州に戻ったと聞いたことが…」と、叔父からはそんなコメントがあったことも付け加えておきます。





こんな敦賀の風景の中に、明治時代の生活があったのだと想像することになりました。
旅のラストミッションとしては「特上」だったような気がします。

フィールドワークはしてみるもの。
座っていては何も解決しません(もちろん例外もありますよ)


(あと1回だけ、つづきまーす)


  1. 2018/04/05(木) 00:15:00|
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敦賀で待つもの

「湖西を巡って、再び京都へ」編からつづく)


3月1日(木)。

旅の最終日である5日目は、京都から離れる行程で、夜遅くには帰宅するプラン。
数日間お世話になった五条のホテルを、寂しい気持ちを抑えながらチェックアウトして、京都駅へ向かいました。

仕方がありません。
旅はいつか終わるのです。
また訪れることを胸に刻んで、関西の風景とは「ひとまずお別れ」としました。





しかしまあ、京都駅の上空があやしいったらありゃしない。
実はこのとき、爆弾低気圧が日本列島を襲っていました。
昨夜、河原町を撤収したその直後から猛烈な雨となったようで、一晩中雨だったみたいなんです。
「みたい」というのは、朝になったらとりあえずは関西地方を抜けて関東へ襲来していたからです。
空があやしくて、まだまだ風の強さを感じましたが、傘を持たないで旅行を続けられそうなことに「ホッとしなくてはいけないな」と、そう思うことにしました。




さて、5日目だけはテーマが違うようなことを予告していましたので、その辺からお話しなければなりません…



□      □      □



どちらの家でも、正月になると親族、親せきが集まって「過去を遡るとこういう人がいた」とか「祖先はこんな人だった」とか、そうした過去の話題で盛り上がることがあるのかな、又はあったんではないかなと思います。

当方も、正月になる度に叔父の家に行っては、これまでにそうした話題をさんざん聞かされてきたものです。

そうした話題の中で、ひと際リアルな内容だったのが、亡くなった祖母から聞かされた話でした。
小学生の頃から聞かされていたその内容は、当方の曽祖父(亡くなった祖母からすれば義理の父)にまつわるエピソード、それも職業に関する話で「戦争前、平壌駅(今の北朝鮮)の駅長をしていた」というもの。
ホンマかいな???

当方がこうした趣味をやっているから、気をつかってそんな風に話を盛っているのかなと半信半疑で聞いていました。
しかし、1997(平成9)年に祖母が亡くなってからも、叔父や叔母から出てくる話題はそのことばかり。
始末の悪いことに、その伝説には証拠がなくて、いつも「~だったらしいんだよね」という語尾が付いておしまいになるから余計に気になります。

なんでこんな伝説みたいな話になってしまったのか。

その原因は、当方の祖父が早い時期にその家(曽祖父)からいわゆる“ドロップアウト”をしたことにあるらしく、当方の叔父や父親の世代(曽祖父本人から見て孫の世代)は「ほとんど何も知らないし、会ったこともない」んだとか。
戦前の日本にはよくあったようです、そんなことが。



そんなこんなで年月が経ち、数年前だったでしょうか、唐突に曽祖父が戸主となっている戸籍謄本(のコピー)を、叔父だったか父親からだったか忘れましたが、渡されました。
どういう訳か叔父が持っていたそうです。

謄本の発行は昭和27年で、全て手書きで一気に書き写された様子(筆跡が全て同じでした)。
コピー機なんてありませんから、そりゃそうでしょう。





さて、問題はその本籍地です。
「福井県敦賀郡敦賀町大黒◯◯◯番地」となっています。

昭和30年代初頭までは叔父の本籍地でもあったそうなんですが、当の叔父本人は東京生まれですから、知る由もない土地が本籍であることに面倒を覚え、その頃(昭和31年)に東京へ本籍を移したんだとか。
こんな経緯もあって、東京や千葉で生まれた叔父や父親たちも、この敦賀という土地にどういう意味のあるのか、さっぱりわからないそうなんです。
さらに厄介なことに、今の敦賀市には「大黒」という町名が存在しない。
一体ココはどこ?

さらにさらに、この謄本は昭和27年時点でのものであり、それ以前に除籍となった情報が全く含まれていない可能性が高い…。
もしかしたら、謄本の元となった改正原戸籍は存在しているのではないか…。
だとすれば、「鉄道員だった」という曽祖父に関する情報が今よりもクリアになるはず…。



年寄連中で「今度みんなで敦賀に行こうか」とかめでたいことを言っていたのが、この正月でした。
でも、行くにしたって何をしに行くのかさっぱりわからない様子なので、どうも危なっかしい。
空振りの温泉旅行になることは必定のようでした。
それならば、今回の旅の最後に「敦賀プラン」をくっつけて、何か手掛かりでも探してみようかと。
次第にそう考えるようになり…

今回の旅のプランは、このように「関西地方の鉄道を乗りまくる」という動機に、「敦賀探索」という課題が合流することでようやく納得できる形に完成したのでした。
旅程を組むときにはいつもラストに気分が高まるイベントを組みたくなり、そこに悩みます。
しょんぼりと帰り道につくのも嫌じゃないですか、ねぇ。



というわけで、この旅のラストミッションです。
①曽祖父の改正原戸籍又は除籍の謄本を敦賀市役所でもらう
②ついでに曽祖父のさらに先代の除籍謄本も敦賀市役所で探してもらう
③本籍地とされている「敦賀町大黒○○○番地」が今のどこなのかを“敦賀のどこか”で調べる


パックツアーでの旅であることは最初に申し上げたとおり。
ですからこの日は、京都から新横浜までの「のぞみ254号」の切符を持っていました。
敦賀まで行って、再び京都に戻るのも芸がないので、それなら在来線で名古屋まで行ってみようかなと。
313系で関ヶ原を越えるなんて、なかなかできない贅沢なミニトリップじゃないですか。
「のぞみ254号」は名古屋発が21時近くですから、それまでに敦賀から移動を終えれば大丈夫、と踏みました。



□      □      □





京都から敦賀へ向かうので、自然にJR湖西線の旅になりました。
湖西線にはきちんと乗ったことがなく、おそらく特急列車で通過したこともないはず。
初乗りなら特急ではなくて新快速で行こうと思っていたら、件の爆弾低気圧の影響で「サンダーバード」「しらさぎ」が終日運休となってしまいました。
色気を出して「サンダーバード」の指定席券を買っていたら、この仕打ちをくらっていた訳で、この日の調査が空振りに終わる予感に襲われていたことでしょう。
地域観察は“快速列車まで”に限ります。
あ、この日の京都から名古屋までの運賃は全てオレンジカードでした。
あはははは。

新快速も20分の遅れということですが「それならば、列車ウォッチングてもするか」とフラフラし始めました。





JR嵯峨野線(山陰本線)ホームには287系が入線してきました。
かわいそうなことに「はるか」も大阪で架線支障(ビニールが引っかかった?)があったそうで全面運休。
駅員さん達はカタコトで関空へ向かう訪日客に「プリーズ、エクスチェンジ、オーサカループライン…」などと案内していて、なかなか殺伐とした英会話スクールの雰囲気でした。





JR嵯峨野線で活躍する221系リニューアル車。
リニューアル車には1日目にお世話になりました。
30年を迎える車齢ですけど、まだまだしばらくは活躍していそうです。
もし引退時期が決まったら、泣きながらまた乗りに来ちゃうかも。





かつての田舎くさい山陰本線ホームの面影はなにもなく、しいて言えば線路とホームの本数くらいでしょうか。
ここから京都中央郵便局の建物がバッチリ見えていたのに、今では天井が蓋でおおわれているのです。
いにしえのキハ58、キハ181、DD51と50系客車…
排気ガスだらけのホームで、だけどアイドリング音はいつも響いていて、不思議なことに京都駅で最も活気のある頭端式ホームでした。
どれもこれもカトーの模型で再現できそうです。





架線ばっかりの中を、たったの4両編成のキハ85系が走り抜けてきました。
当然ながら気動車ですので、架線には何にも触れるものがありません。
短い編成はまるで大海を漂う木の葉のようです。

「アーバンネットワーク」なんて言いながら、このエリアには未だに気動車が走っていますから、おもしろいですよねー。
東京23区内から気動車が消えたのは80年代初めの頃でした。
こういうギャップが乗り鉄流の観察です。

爆弾低気圧の影響があっても、東海エリアへ帰還することが最大のミッションでありましょうから、たくましく運行していました。






長い0番線ホームにたった4両のキハ85系。
「そうか、キハ85系も223系とかと一緒に遊んでもいいのか」と模型的な視点でニンマリした瞬間でした。
JR時代の車両も組み合わせがいろいろなんです。

そろそろ引退時期が見えてきたキハ85系です。
屋根上の明かり取り窓が汚れまくっていたんですが、それでいいんでしょうか。





また気動車がやってきました。
今度はHOT7000系「スーパーはくと」用特急形気動車。
気動車なのに最も特急らしいフォルムで、昔のスーパーカーのようなスタイル。
これ、Nゲージで安定的に供給されるといいですよね。
マイクロエース製品を持っていますが、それだけではちょっと不安です。





そして、223系2000番台。
行先が「草津」になっていますけど、確かこれに乗ったような。
京都で切り離して、前4両だけで湖西線へ入っていく運用でした。
京都分割は珍しい運用だとか聞きますけど、どうなんでしょう。



そしていよいよ「関西」ともお別れです。
ひとり旅でしたけど、楽しかったなぁ。






高速で走る湖西線の車窓からは、爆弾低気圧が去った後の琵琶湖が見えました。
水面がキラキラしていて、車窓をおみやげで持ち帰るとすれば上出来と言えましょう。
京阪石山坂本線と湖西線の車窓を持ち帰ることができました。







湖北地方に差し掛かりました。
晴れてはいないんだけど、この季節にこの曇り空が切なくてたまらないんです。

そして、かつては北海道のニセコと並ぶ珍しいカタカナ駅名だったマキノ。
この新快速からも、メタセコイア並木が見えて、2014年の夏の旅を思い出してみたり。
湖西線ではとても豊かな時間を過ごせました。



モーター音を甲高く鳴らしながら北を目指す4両編成の223系2000番台は「ガラガラ」。
車両はアーバンネットワークの主力ですが、その車内がどこまでもローカルでした。
反転シートをボックス状にして足を投げ出して寝ている人もいたりして、まるで国鉄時代。
走行距離が長いので、末端輸送は都心利用者には想像できないものになっているようです。
当方は、この乗車体験をもって、223系2000番台や225系100番台の4両編成のイメージを「ローカル線の車両」に書き換えてしまいました。
Nゲージでの新快速の遊び方にも別の展開が生まれそうです。


山が白く見えてきて、越前の国へ。
その先には何らかの情報が待っているのかなと思いながら、湖北から北陸へ向かう風景にも深く酔っていた、そんな場面でした。


(つづきまーす)


  1. 2018/04/03(火) 00:01:00|
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湖西を巡って、再び京都へ

「万能電車 京阪800系」編からつづく)




浜大津の交差点で電車ウォッチングに興じているとそれはそれで満足できますが、せっかくの機会なのだから乗らないといけませんよね。
京阪京津線の楽しさを味わった後は、「歩くまち・京都レールきっぷ」のエリアを外れますが、京阪石山坂本線に乗ってみることにしました。
滋賀県・湖西地方の旅、です。





再び地図で確認。
浜大津を中心に、北へ向かうと坂本、南へ向かうと石山寺です。
JRよりも細かく駅が刻み置かれていて、より地元密着の輸送を担っていることがわかります。





ちょいと前の京阪カラーでやってきました。
これで、まずは北の坂本まで運ばれてみることにしました。


ところで。
この路線については、古くからグリーンマックスが京阪500・600形をキット形式で製品化していて、Nゲージユーザーとしては「一応知っていた」存在でした。
ベルニナ号の動力ユニットを使うアレですよね、あー懐かしい。

だけど、どうしてこの路線を走る車両が、そんなに古く、Nゲージ黎明期から製品化されていたのか、そこが謎というか、どこか引っかかるというか、スッキリしない興味がありました。
失礼な言い方をお許しいただけるのならば「そんなに有名ではない路線なのに」ということなんです。

グリーンマックスのキットの存在感は、完成品製品が溢れかえるようになると、いつしか薄れていきましたが、最近になって、鉄道コレクションでの石山坂本線、大津線全体の展開が異常な程に。

かつてのグリーンマックス、そして今のトミーテック。
この二社が同じ視点で製品化を試みたのかどうかは全く不明ですが、そういうメーカー達からの提案を自分の目で確かめておきたくなったというのが本音であり、今回はその絶好のチャンスでした。





まずは北へ、坂本へ向かいました。
曇り空が似合う落ち着いた近江路、という風景で、高架線であるJR湖西線の車窓からは感じられそうにない、生活感のある車窓でした。
年齢の低い学生や児童が混じっているため、乗降客からも生活のインフラになっているように見えた程です。

ここまでの同乗者は、そうした帰宅する地元の学生くらいで、駅からすぐに散り散りに消えていきました。
気温は浜大津で感じたそれからさらに下がった気がしていて、大阪と比べると10℃くらいは差があるんじゃないかと思う程。
おそらく天候よりも地形が関係しているんでしょう。





ところで、石山坂本線では、この旅の後の3月17日のダイヤ改正と同時に「坂本」を「坂本比叡山口」に駅名変更しました。
その他「浜大津」を「びわ湖浜大津」、「別所」を「大津市役所」、「皇子山」を「京阪大津京」に変更しています(合計4駅)。
滋賀県の観光戦略に沿った改名だそうですが、浜大津は「浜大津」のままであって欲しかったと。





大津坂本本町局で旅行貯金をしようと、少しだけ街を散策しました。
さすがは「滋賀県」です。
歩いてすぐに飛び出す人が出現。
自宅に置いてある久田工芸製(いわゆる「0系」)と似ていますが、よく見ると髪の毛の線が直線であったり、表情も微笑んでいたりと、微妙に違うようです。
「0系2000番台」といったところでしょう。





今度は石山寺へ向かいます。
坂本で折り返す電車がやってきました。
登り勾配があるため、遠方の風景が沈んで見えます。
坂本は山の麓でもありますから、こうして地形がうねっているのですね。





滋賀里まで戻ってきたら、すれ違った電車が「ちはやふる」ラッピング車。
地方私鉄もいろんなコンテンツで起死回生策を講じているようで、時代も変わりました。
もちろん、こうした話題づくりはイイことだと思います。
ココが舞台なんだと、当方はこれを見て初めて認識したのですから。





浜大津の手前で、再び路面区間に出ました。
この日通算3回目の路面区間体験です。
こうした区間は、今となっては街の風景として貴重なものではないでしょうか。
都会の人は、この風景をスローな要素として憧れているんだと思うんです。

広島は少し例外ですけど、富山や松山、函館などを見ると、落ち着きのある空気を感じます。
嵐電もそうですし、ココもそうです。





終点・石山寺。
こちらへ向かう方が乗降が多く、なるほど大津や膳所、瀬田に近いこともあって沿線にはマンションが目立ちました。
京津線を含めた「大津線全体」の輸送断面には極度な差があるようです。





少し歩いて石山寺局で貯金。
駅へ引き返す途中で見たのは、瀬田の唐橋でした。
瀬田川で見られるボートの練習風景はここの定番で、川の流れと同じように、穏やかな時間の流れを感じました。
最近、こういう風景に強く惹かれるんですよ。
ダメですねえ。





京阪京津線・石山坂本線の体験乗車はこれにて終了。
石山寺で折り返す電車には、よく見ると800系が描かれたヘッドマークが掲出されていました。
それと、この復活カラーは秀逸ですね。


模型の世界でどうして受け入れられ続けているのか、そんなことを検証しようと乗ってみました。
その答えとしては、2両編成でコトコト走る電車の姿はまるで大人のメルヘンであり、模型の世界では長大編成に疲れた方にはモッテコイ、だということです。
1980年代、グリーンマックスとしては、路面電車の動力ユニットを開発することはできなくても、石山坂本線(大津線)の車両だったらベルニナ号の動力ユニットを使えば製品化することができると気づき、そこを突破口にして地方都市の「日常風景」を提案したかったのかもしれませんね。
いずれにしても、見ているのは京阪の車両ではなくて、それを通して見える、愛おしいと思える風景だったのでしょう。
そしてそれは、模型で長大編成を走らせたりしても、また、現実の世界で湖西線の車窓から見ようとしても、決して見えない風景なのですよ、たぶん。



JRで京都へ戻ろうかとも考えましたが、京都に泊まる最後の夜でもありますから、京都「駅」ではなくて三条へ戻ることにしました。
なので、みたび浜大津からは京津線です。






20km/hの速度制限がある「直角カーブ」を抜けると逢坂山トンネル。
画像でお判りいただければ幸いなのですが、ジェットコースターの最初の登り勾配そっくりでした。
奥に見える国道1号が、ほぼ水平を表していると思います。





ジェットコースターですから、サミットを越えたらまるでノンブレーキのような下り方(ウソです)
大谷を過ぎて、勾配の上から追分を臨むと、この駅が急勾配の途中に平らな土地を確保して設置されていることがわかりました。
止まらないで下っていきそうですけど、そこはオールMの800系。
粘着力を発揮して、フツーに停車していました。





追分を出発しても、さらに「降下」。
念のために言いますが、これ、トロッコで下っているのではありませんのよ。

こんなんでもインターアーバン路線なのですから、神戸電鉄のときと同じように常識が破壊される訳です。
鉄道模型をやる人間として、とても貴重な経験となりました。
これで「大津線はこうだ」としゃべることができそうです。





時刻は17時近く。
800系とのすれ違いもこれで最後。
再び地下区間へ入って京都へ吸い込まれていきました…。



□        □        □





京津線・地下鉄東西線を三条京阪で降りて、京都へ戻ってきました。
時刻は17時を回った頃。

滋賀県では全く見ることがなかった観光客が、三条付近では溢れかえっていて、どこを歩いても聞こえてくる言葉は○△□…です。
そういえば3日目の夜に見た京都タワーの回りもそうで、隣の家電量販店の下は異国情緒満点。
かつては、夜の京都駅周辺なんて、コンビニが開いているかどうかという程度だったんですよ。

ひょっとしたら、あの落ち着いた風情の京都は、もう永遠に戻ってこないのかもしれませんね。
国策をトリガーとして、海外の経済動向が影響している訳ですから、この流れはもはや制御できそうにありません。





鴨川の風景も、2月末、平日なのに人が多いようでした。
さらには、河原には集団で固まる方々が多く見られ、誤解を招くかもしれませんが、ちょっと治安的な不安を感じたりして。
すみません、決して「分断」を煽るつもりはないのです。
ただ、治安的な不安要素はどうしても拭えないということなんです。

夕飯の場所を探そうにも人の流れが激しく、また少しでもネットで有名なところはどこも満員のようで、結局は「王将」で(情けない)。
上の娘が中3のとき、つまり3年前、タクシーによる班行動で入った店が「来来亭」だったらしく、その当時親として大笑いしました。が、まさか自分がそういう選択をするとは…。
「来来亭」はタクシーの運転手さんのオススメだったということで「なんという適当な人なんだ」と思いましたが、今思えば「余計なセンスを出してお店を探しても“いいお店”になんて出会えないよ」というアドバイスだったのかもしれません。





そして先斗町。
(当方もその中の一人ではありますが)狭い通路が人だらけでとんでもないことになっていました。
20年前は、先斗町って「知る人ぞ知る」通りだったんですが、今ではまるで「竹下通り」です(笑)
ボンヤリと灯る明かりが日本の風情を醸し出していて人気があるんでしょう。
そのうちクレープ店が出現しそうな、密度の濃い商業集積地域でした。





デジカメの時代でもありますから、こんな風に写真が撮れちゃうので、街を散策したくなる気持ちもわかります。





四条河原町。
信号待ちの風景を見ると、なんというか、人が歩道からはみ出ていて、そして溢れているのですよ。

なお、四条通りは最近になって歩道が拡幅されました。
歩きやすくなったものの、歩行者の数が増えていて、それでも歩きにくい。
グループ客が多いから、突然路上で固まり始めたりして流れも悪いし。
それで、車は渋滞。

今の京都をどのように評価したらいいのかわからなくなりました。







19時過ぎまで四条通りを行ったり来たりして、ついでに祇園を見学しました。
ここら辺には、かろうじて昔からの京都が残っていましたが、料亭の外には河原町からはみ出してきた方々がチラホラと。
数年後には、この辺に大手外食チェーン店が出店しているのかもしれません。




とはいえ、細かい路地に入り込むと、まだまだ懐かしい京都を発見することができました。
例えば、町家の名残りを発見すれば幕末の時代を想像できますし、そこに灯る明かりを見れば、その建物で今でも営まれている暮らしを想像して、憧れてみたりできる…。
こういうのって、清水寺や金閣寺では感じることができないメンタリティだと思うのです。

やはりその土地での風景の切り取り方、自分の身をどういう風景の中に置けば「非日常」を感じることができるのか、が“観光”をする上で大切になってきているのでしょう。

情報に従って「楽しいはずの場所」に行って、実は楽しくなくても「楽しい」と言って写真を撮って帰ってくる。
そんな風に有名観光地をスタンプラリー形式で回るんじゃなくて、あえて観光地をスルーする勇気を持ちたいですね。
自分だけの「とっておきの場所」を見つけて、できることなら、そこを大事な人とだけで共有する…。
2日目に訪れた、神戸の坂の上から見た海の景色はまさにそれでした。
ごく普通の住宅地でしたけど、当方にとっては大切な場所になったのです。

産業化してしまった「観光」には、こうした視点を持つことがそろそろ必要なのかもしれません。
観光地が観光を産業としながら、人口が減少することなく繁栄してくためには。
そうでなければ、どの観光地も“京都化”していくような気がします。
そして、さらにその先にあるのは“清里化”なのではないでしょうか。

「文明」に触れて「楽しい」と言うことと、「文化」を見出して楽しさを感じることは、似ていてもその意味が大きく異なるのです。
目的地を訪れて、一体どんなことを「受け止めたい」のか。
そして、どういう空気を吸いたいのか。
少なくとも「見たい」という動機だけでは旅をしたくないなあと、そう思うこの頃なのです。

難しいことを言っていたらゴメンナサイ。



これにて4日間に渡る京都の夜ともお別れ。
旅行会社のパンフレットに書かれていたとおり、暮らすように過ごした京都でした。
少し寂しくなりました。

次はいつになったら来れるのか。
それまでは「探偵!ナイトスクープ」でも見て、画面から関西の空気を吸い続けることにしましょうか。


(5日目につづきまーす)

  1. 2018/03/31(土) 12:00:00|
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万能電車 京阪800系

「音川さんちを訪ねて」編からつづく)




嵐電本線区間を四条大宮方面へ進むと、壮大な(ように見える)路面区間(併用軌道区間)となりました。
ストレートな道路と、空中に張り巡らされた架線とワイヤーがいかにも昭和の中頃をイメージさせるじゃないですか。
併走する車たちの中に、時代が古そうなものを探したくなる、どことなく懐かしい気分になる風景でした。





四条大宮に到着。
ココに用はなく、すぐに折り返して次のプランへ進みました。

その折り返しの電車は学生と観光客であふれ返していて、なんとかして乗るのが精一杯でした。
路面電車にこんな需要があるというのも、どことなく昭和な気がして、悪い気はしませんネ。





嵐電天神川で下車です。
混雑していたことから、下車に手間取ってしまい、運転士さんが「発車しまーす」と発声したので条件反射的に「おりまーす」と大声を出してしまいました。
カメラをぶら下げて、ちょっと恥ずかしかったかな(笑)

嵐電の乗車体験はこれでおしまいです。
思っていた以上に路面区間が長く、この車両の模型たちを「路面電車」としてレイアウト上で遊ぶことは少なくとも間違いではないと考えました。
モデモさんには、もっと頑張ってもらわないといけませんね。





嵐電天神川の目の前は、似たような名前の駅である太秦天神川。
地下鉄東西線の終点となっています。

地面に大きな窪みができていて、開放感のある入口でした。
2008年に開業したばかりなので、最新の部類に入る地下鉄の駅といえます。
東西線自体、当方にとっては初乗車となりました。
しかし、東西線に乗ることがミッションではなくて…





ここから京阪京津線への旅をすることが、この日のメインでした。
なので御陵からは浜大津を目指します。
浜大津行きの運行本数は20分おきに設定されているようなので、途中下車も簡単です。
一旦、三条京阪まで進んで途中下車して、その20分間を旅行して京都三条局で旅行貯金。
改めてそこから浜大津方面へ進みました。





地図で確認しておきます。

京津線はその名の通り、京都と大津を結ぶインターアーバン鉄道です。
特に、京都と大津は互いに府庁・県庁所在地であり、日本中を見ても非常に近い都市同士となっていますが、地形的には大きな隔たりがあるようで、この隘路、特に大谷付近の逢坂山の克服の仕方が興味のポイントでした。
一度でも自分の目で見ておかないと、イメージを口に出しても嘘になってしまいますから、今回の旅でしっかりと観察しておこうという点が狙い。





スカイブルーの京阪800系で、まずは第一形態とも呼べる地下区間を抜けました。
複線ですから、時折反対方向の列車とすれ違いがあり、都市近郊そのもの。
神戸電鉄でもそんなことに気づきました。
反対から来る800系は、2017年から始まった新塗装化第一弾の815編成のようです。
マイクロエース、やりそうだなぁ(笑)





だんだん逢坂山へ近づいていくと、パッと見でもかなりのアップトリムであることがわかりました。
800系の第二形態である登山電車の仕業が始まっている場面です。
目の前の構造物はたぶん名神高速道路。
この先に行けそうには思えない(峠などなさそうな)閉塞感が漂っています。



さて、浜大津まで一気に進んでしまうのはつまらないし、京津線の特徴を理解するためには少し物足りない…。
乗っているうちにそう感じるようになりました。





なので、大谷で途中下車しました。
この駅で一番有名なのは、ホームのベンチでしょう。
座面が水平レベルを出していて、ホーム面が勾配角度を表していると思います。
ここは40‰の勾配で、日本の普通鉄道・軌道では日本一の急傾斜の駅ということだそう。
“勾配”というキーワードはすっかり今回の旅のテーマになってしまいました。





次の列車に乗る前に駅付近を観察することにしました。
近くにあった住宅地図で予習します。

ここは昔から京都へ通じる交通の要衝で、現在では名神高速道路と国道1号に挟まれています。
それ以外に、例えば住宅地が広がっていることはなく、都市と都市の間にあるエアポケットのような土地と空間のようです。







大谷駅前を北向きに歩いてみると、名神高速道路の案内板がチラリと見えて、さらにはトラック類の走行音も聴こえてきました。





それから、面白いナと思ったことは、この二つの大幹線道路に挟まれた駅前の道路こそ、旧東海道であるということなんです。





なので、京都方面へは行き場がなくなった旧東海道は、歩道橋で国道1号の向こう側へ逃げています。
というか、もともとの道を京津線とイチコクが埋めてしまった、というべきでしょう。

今では、京都へのアプローチは東海道新幹線であったり東海道本線となりました。
しかしその昔、といっても近代までの比較的新しい昔までは、長浜から琵琶湖を船で移動して、浜大津からはこのルートで京都へ抜けていた…ということがよくわかります。

そういえば、2014年に長浜鉄道記念館を見学したときにそんなことを学習していました。
その学習の続きがココということになります。
観光地によくある資料館って、意外と役に立つことがあるのですよ。
京都については、交通の歴史を切り取っても興味が湧いてきます。





その歩道橋の上から浜大津側。
「逢坂の関」はこの画面のすぐ向こう。





そして三条京阪側。
きっと、徒歩で都を目指していた時代に「あと一息」と感じて見た風景そのものなのでしょう。





そんなことをやっているうちに、浜大津から800系がやってきました。
山岳トンネルである逢坂山トンネルから抜け出た地点がこの峠のサミットになっているようで、そこからにわかに降りてきたように見えました。







浜大津行きの800系も到着、というか山を登ってきました。
地下区間を走ったり、最大61‰の勾配へそのままの仕様でアタックするのですから、この車両の多様性はもっと有名になってもいいと思いますし、製造コストが新幹線並み、という話も頷けます。

恥ずかしいことを書きますが、数年前にマイクロエースが800系を製品化したときは「この電車はなんなんだ?」という感想を持っていました。
当方は、この車両にそんな認識しか持つことしかできなかったのです。
でも、マイクロエースの企画としては、こうした多様な路線の特徴、それに対応した変わった車両に「遊びの要素」として認識していたのでしょうね。
発売と同時に、室内灯を取り付けると「提灯」になるということでマイナス的に盛り上がってしまい、その騒動がその遊び方や楽しみ方を掻き消してしまったようでした。
今から思えば、とても残念なことです。





上栄町まで下ってきました。
列車から後ろ向きに見ているところです。
名物のフランジ音防止スプリンクラーが水を散布していて、そのスペシャル感がまた素晴らしい。
この水まきだけでも結構な費用がかかっているはずです。
さらには、この付近に61‰という碓氷峠並みの勾配が仕込まれていて、とにかく注意して見なければならない場面が多すぎ。
路線が持つバラエティ要素の豊かさでは、江ノ電を圧倒するものがあるのではないかしら。





路面区間に躍り出ました。
ここから浜大津までは、車との共存共栄の社会を目指して頑張っていきます(誰が?)





そして京津線・最後の大イベント。
浜大津の交差点へ差し掛かりました。

たったの4両編成なのに、乗っている列車の頭が見えるという恐ろしいカーブ(ほぼ直角)で、もはやNゲージ、いや、プラレール並です。
こういうイベントが平然と、約20分置きに繰り返されている場所。
それが浜大津なんでしょう。
鉄コレのために並ぶ場所、ということだけではないようです。





という訳で浜大津に到着しました。
明らかに京都よりも気温が低く、琵琶湖からの冷たい風を感じて、冬の格好でよかったと思いました。
京都と大津は近くても遠さを感じてしまう、不思議な関係ですよね。





早速駅の外に出て、2014年の夏に家族で泊まった琵琶湖ホテルを確認しました。
京阪グループの中核となるホテルで、あのときは、早めにチェックインをして少し時間を余らせてしまいました。
こんなに京都が近いのならば「夜の三条を散歩しに行こうか」と夕食後に800系に乗ればよかったのです。
下調べが甘かったようで、2014年における浜大津の認識はそんなものだったということ。
だからフィールドワークは大切なんですョ。





例の交差点に立って、三条方面からやってくる800系の様子を観察してみたくなりました。
よく見ると、800系って笑っていますよね。
並走する車と戯れているからなのか、そう思えちゃいます。

このとき、当方の反対側には石山坂本線の電車を撮影しようと張っている人が二人いらっしゃいまして、そんでもって、当方があまりにも真剣に800系がやってくる方向を向いているので、不審がってその方向から来るモノをチラリと確認していました。

80系でも来ると思ったんですかねー。







そして800系は交差点内へ、ゴゴゴと音を立てて進入。
貫通幌がビヨーンと伸びて、妻面が思いっきり見せつけて歩行者を威嚇していました。
800系の第三形態というべき路面区間(併用軌道区間)の走行シーンをバッチリと観察できましたよ。
地下区間とは異なるパンタグラフの上がりっぷりが見事。

それから、先ほどは嵐電の路面区間を見ましたが、コイツは4両編成で堂々と進入してくるのですから、スケールというか迫力が段違いです。
日本の鉄道でもこんなことをしていいんですね(笑)


(つづきまーす)








  1. 2018/03/28(水) 23:00:00|
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音川さんちを訪ねて

「ならまちにて」編からつづく)


2月28日(水)は旅の4日目で、実質的にこの日が“関西乗り鉄”のラストデイ。
残りの1日は、趣向を変えたミニトリップを予定していました。





その4日目は、京都の私鉄を乗り歩くことに決めていて、それをホテルの近くから始める訳ですから、出発は遅めに設定。
ついでに、9時から開く最寄りの郵便局に行こうかと思い、京都五条東洞院局に立ち寄ることから始めました。





この郵便局は、見える二つのマンションの間の路地を入った、左側のマンションのすぐ裏にありました。
確かこの辺には1987年に修学旅行で宿泊したホテルがあったはずと気づき、その事を聞いてみると「目の前のマンションがそのホテルでしたよ」という答えが。

ホテルはとっくの昔に廃業となり、右側交差点寄りのマンションに変わってしまっていたのです。
いろんな思い出があったホテルでしたが、跡形も無くなってしまってはどうしようもありません。





この日は「歩くまち・京都レールきっぷ(1日版)」を使いました。
京都市内を基本とした、市営地下鉄、嵐電、阪急、京阪、JRの各路線に乗り降り自由。
数ある京都のフリー切符の中で、一番今回の目的に近いという判断です。
四条駅構内の京都市交通局案内所で買うとき、係員氏には「市のバスには乗れませんが、それでよろしいですね」と念押しされました。
観光には市バスがマストなのでしょうから、こういうフリー切符があること自体、不思議ではあります。





まずはこの切符を使って、再び阪急電車で四条から桂まで移動。

9時台の閑散とした車内では、いかにも「河原町帰り」である男(店員)女(客)が、いかにもいかにもといえる会話をされていて、桂までの間にバッチリとその音声が聴こえてしまいました。
「京都の遅めの朝」を見学することができましたが、いにしえより京都は都なんですから、そんなの当然ですよねえ。
どうやら阪急京都線の某駅にある女性宅へこれから向かうようでした。
これもまた沿線風景ナリ。







阪急9300系はこれにてしばらく見納めとなりそうですから、桂に着いたそれをダメ押しで見学。
2日目に強くインスパイアされた車両で、今回は風景だけでなく、こうした「食わず嫌い」だった車両にも積極的に触れた旅でした。
この日は、この後にも認識を新たにした(模型が欲しくなった)車両に出会うことになります。





この日、まずは阪急嵐山線に乗って、嵐山からは嵐電の全線に乗ろうというプランです。

元京都線の女王様・6300系はこんなところにいました。
嵐山線運用専用の4両編成6352Fで、リニューアルされた内装は品があるというか。
阪急電車にはヤラレっぱなしとなりました。





嵐山到着。
この駅で降りるのも始めてでした。
だいたい嵐山へのアプローチはJRで嵯峨(嵯峨嵐山)下車と決めていた時期がありましたから。
以前にお話したとおり「京阪神ミニ周遊券」は私鉄に乗るという選択肢を全くブラインドしてしまいました。





京都嵐山局は少し遠かったようで、渡月橋を渡る方向とは全く逆でした。
ちょっとよろしくないルートになりましたが、「嵐山」というゴム印を残したかったので仕方がありません。





その後は渡月橋。
橋を渡る京都市交通局のバスも、すっかりノンステ型に変わっていました。
このカラーリングとこの橋。
バスの色は「街の色」でもあります。
とにかく似合います。
バスコレでこのカラーリングが人気なのもわかる気がします。
旅の思い出にはちょうどいいですよ。





さすがに嵐山は国際色豊かというべきで、外国人観光客がワンサカいらっしゃいました。
当方がこの辺を頻繁に訪れていた頃は、タレントショップやテレビ番組のアンテナショップがいくつも出店していた時期に当たりますから、約30年前…。
どことなく清里っぽかったです。

今ではそんな面影は全く消えていて、あのときの盛り上がりはまぼろしに。
ホテルが建物ごと無くなってそこにマンションが建つくらいの年月が経過したのですから、そりゃショップくらい簡単に消えます。





ココからは嵐電全線を乗り尽くすことにしました。
何かと京都っぽい乗り物としてメディアでも話題になりますし、モデモも製品化していますから、模型をやる人間としてもこの際ちゃんとイメージをつかんでおこうと思ったのです。





嵐電本線は複線で専用軌道もある程度長いので、こういうところは都電荒川線みたい。
車内は外国人観光客である女性グループと、地元のおばちゃんとの混成編成で、それでもうまく共存共栄の道を歩んでいるみたいでした。
これで、ひとまずは北野線との分岐点・帷子ノ辻(かたびらのつじ)へ。





帷子ノ辻で降りてフラついていたら「夕子号」が来ました。

京都のお土産といえば、かつては八つ橋が定番だったんですけど、最近はやたらいろいろなものが増えたようです。
おかげで、八つ橋を買って帰るとテキトーなセレクトだと思われそうで怖い。
八つ橋が最高だと思うんですけど。





さて、帷子ノ辻に近い「とある踏切」にやって来ました。
この踏切の奥にある販売中の建売住宅(の土地)にとても大きな目的があったのです。
といっても買う訳ではありません。





ここは、近年まで古い住宅が建っていて(いたはずで)、テレビ朝日・土曜ワイド劇場で2010年まで約30年続いた『京都殺人案内』シリーズのロケ地としても使われていました(ロケ地となったのがシリーズ何弾からかは確認していません)。

設定は、京都府警捜査一課 音川音次郎警部(藤田まこと)の自宅。
すぐ近くに松竹の撮影所があることから、少しだけ外に出て撮影、という流れだったのではと想像しています。

当方は、年に1回、冬が終わる頃若しくは4月に放映さていたこのシリーズが特に気に入っていて、京都のイメージを寺社仏閣とかではなくて、まさにこの踏切の風景に抱いていました。
本当なんだから仕方がありません。
夜、音川警部の帰宅シーン。
踏切が鳴って、電車が唸りながら通過、そして遮断棒が上がって歩き出す…という流れだったかな。
これが当方にとっての京都。

だからこそ、建物が無くなる前に来るべきだった…。
当方もずいぶんと京都をご無沙汰してしまったのですから仕方がないですけど、インターネットで様々な情報を得られるようにならないと、来るとか来ないとかの問題以前に、こんな場所すら永遠にわからなかったのです。





3区間に分割され、その端の物件がまだ販売されていたようでした。
購入される方が現れるとすれば、踏切や電車の音をポジティブに理解された方、ということになるんでしょう。









帷子ノ辻から、今度は北野線に乗って、終点・北野白梅町まで移動しました。
駅舎は簡素な構造で、よく見ると1925年の開業当初の外観(?)を見ることができます。





北野白梅町で少し休憩して、今度は帷子ノ辻に戻ってそこから本線を進むことにしました。







帷子ノ辻へ戻る途中の妙心寺で途中下車。
この妙心寺駅の真ん前には京都竜安寺局があるので(妙心寺局ではないのです)、次の電車が来る間に効率よく訪問局数を増やしました。
この辺は単線のようです。
反対向き、北野白梅町へ向かう電車。





帷子ノ辻からは再び本線へ。





太秦広隆寺まで来ました。
ここら辺から正真正銘の路面区間が現れて、テンションはさらに高くなるのでした。


(つづきまーす)
  1. 2018/03/26(月) 23:40:00|
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ならまちにて

(「ハイタウン石切(後編)」編からつづく)


いろんな発見があった石切から新生駒トンネルに吸い込まれたその後は、近鉄奈良まで一直線に…

と考えていたところで、ここで気まぐれが再発。
生駒に着いて、勢いでヒョイとホームに降りてしまいました。
抜けてきたトンネルの反対側の様子を少しだけ観察しておきたくなった、というのがその動機です。
今見ておかないと、次がいつになるかわからないし…。





なんだか石切側とは全く雰囲気が違っています。
先ほどよりも陽射しが遮られているということもありますが、石切よりも“人口の多さ”が伝わってきました。





降りてみなければわからないこと、地図だけではわからないことってこういうことだと思うんです。
何がわかるのかというと、けいはんな線のトンネルから出てきた7020系にレンズを向けた、そのすぐ横には、都市近郊の日常が見える、ということです。
あんなに標高を稼ぐプロセスを経て、あんなに長閑な石切の風景があって、さらにはあんなに長いトンネルをくぐったというのに、不思議なことに都市近郊の風景が広がっている。
神戸電鉄のときと同じように、関東に住む者としては順序がおかしい気がして、常識が壊されることに楽しさを感じました。





駅前も都市近郊そのもので、「鹿のバス」も待機しています。

だんだんわかってきたことなのですが、近畿地方は関東地方と異なって、山々が点在するためにこうした展開が見られるようです。
そういえば、1日目に乗ったJR大和路線でも王子を過ぎた辺りで大和川と併走する区間がありました(昔、ナイトスクープで川下りするやつをやっていましたね)。
あれも通勤路線の途中にある風景とは思えないし、2日目のJR宝塚線の武田尾付近もそう。
今回の旅では、こういう地勢的な発見とか再認識が大きな刺激となりました。





けいはんな線は大阪市営地下鉄・中央線に乗り入れている…と大阪港の件で書いたところ。
その反対側がココということで、再び第三軌条方式・750Vの電車と対面しました。
なんだかウロチョロしてばかりしている1日でした。

生駒強行偵察はこの辺で切り上げ。




再び、近鉄奈良へ。
列車は軽快な音を立てて奈良へ下りていき、そして、生駒山地は遠ざかっていきました。





大和西大寺を過ぎて、平城宮跡を横目に見れば、もうすぐ奈良です。
できれば、平城宮跡から近鉄電車を見てみたかった(笑)
こんなに大きな史跡の隣を走る電車って、贅沢ですョ。





15時過ぎに近鉄奈良に到着しました。
折り返す車両の行き先表示は「尼崎」。
ネットワークの複雑さは、行先表示で味わうものなのです。



□     □     □


実は、20年ぶりの奈良には少しだけ観光のような目的をもって来ました。
ハードな乗り鉄をしてきたのに、らしくないですよね。
この近辺は、高校のときの修学旅行を皮切りに、その後何度も何度も散歩してきたつもりだったんですが、今から10年くらい前に「ならまち」という地区を知るに至り、「そんなところ、あったっけ?」と。
恥ずかしながら、興福寺地区のすぐ近くに広がる古い街並みについては、知らない時間の方が長かったのです。
だから、今回は迷うことなく「ならまち」をターゲットとしました。


でも、近鉄奈良に着いても、時刻はまだ15時過ぎ。
「それならば、久々にやるか!」と思い立ったのが「郵便局巡りタイムアタック」でした(適当に名付けています)。




調べてみると、「ならまち」界隈には3つの局があり、頑張れば京終まで行けそうです。
んでもって、京終局から戻る形でならまちを散歩すればいいと判断。
街歩きのルートづくりは、即座に即席に、だけれども一筆書きで回れるようにしないといけません。





頭の中で行程を組み立てながら早歩きをしたら、まあなんとか4局回ることができました(笑)
この4局を、およそ50分でクリア。
奈良小川町局だけは混雑が激しくて危なかったですが、大仏の顔が入ったお宝印を用意してくれていたのでOK。





風景印も3つ獲得することができて(京終局だけはありませんでした)、バテバテになりながら荒稼ぎ成功。
切手のセンスはこの際御容赦くださいませ。









京終局でバテバテになったまま「ならまち」散歩を開始。

でも、どうして長い間「ならまち」を知らないままだったのか、自分でもよくわからないのです。
おそらく「観光スポット」をスタンプラリーのように巡る旅から抜け出せていなかったことが原因かと、そう思うしかありません。
今回も「せっかく奈良まで来たのだから、せめて東大寺には行っとくか」とか、そういう衝動が起こりましたし。
だけど、そこに拘っていてはいつまでたっても視野が広がらない。
どうも、観光する方の心理として「行ってきたことの証明」を撮影して持ち帰りたいという気持ちがあるのではないでしょうか。
フィルムカメラの時代からそうでしたから、デジタルカメラ全盛期の今では、その傾向は一層強いですよね。
観光にあたってゆとりを持つためには、何回も繰り返し訪問しないとダメなんだと思いました。


歩いていたら、年配客でぎゅうぎゅう詰めの静岡ナンバーのレンタカーが目の前に止まって「すみません、興福寺はどこでしょうか?」という質問が。
「全然違うところを走ってますよ」と教えてあげて、人命救助をしたりしながら、またフラフラ。





ならまちのメイン物件、元興寺は世界遺産としての登録を受けた木造建築物だそうです。
乗り鉄の旅では、たまにこういうところにも参拝したりするのです(乗ってばかりではありません)。





その元興寺で。
奈良でも春っぽいパーツが見られました。
旅も3日目で、そろそろ関西の空気にも慣れてきて、一人旅なのに帰りたくないというか、もっとこの辺の空気を吸ってみたいと思うようになってきて。
旅も折り返し地点を過ぎた頃です。





この日も昼御飯を抜いていた(忘れていた)ため、17時近くになって「なんらかの補給をしようかな」と「ならまち」を歩きながら、その目的が食糧捜索となり始めました。
そんな流れでたどり着いたのが「おスギスイーツカフェ」さんでした。
スイーツは得意分野なので、これはイイ!

と思ってガラガラと戸を開けたら、先客はそれぞれ女子2人の二組。
瞬間、「やっちまった!」と思いましたが、こころよく(?)迎え入れていただき、とりあえずスリッパに。





晩御飯の前なのに、ガチでスイーツをいただきました。
女子二組からヒソヒソ言われそうな気配を感じましたが、でも(たぶん)そんなことはなかったようで、美味しくいただきました。
ま、お店の中だけのことだけであって、外に出た途端「なにー、あの男」と処刑されたことでしょう。
ファミレスの席に座るおっさんとは意味が違うのですから仕方がありません。
「あのね、勤続25年でね、5日間の連続…」と弁明しながら着席するのもなんですから、この場合は戸を開けた瞬間に処刑されるデスティニーを背負ったんです。きっと。

お断りして、こうしてスイーツを撮影させていただき、「ならまち」の思い出をつくりました。
おっさん一人で。







興福寺の近くまで戻ってくると、外国人観光客もポツポツと増えて、やっぱりこの辺が奈良のメジャースポットなんだなと思いました。
ゆえに「ならまち」に外国人がなだれ込んでくるまでにはもう少し時間がかかるでしょう。
結局、カフェ近くにそうした観光客は全くいませんでしたから。







鹿はもうどこにもいませんでした。





夕暮れどきの県庁所在地。
それぞれの街に、それぞれの帰宅時間があります。

偶然にも、ウロウロしていたら奈良県庁の退庁時刻となってしまい、ニセ奈良県職員となって近鉄奈良まで歩きました。
意外とこれが、奈良での一番楽しいイベントだったかな。



□     □     □





帰りは、近鉄デイでもありますから、近鉄京都線で京都まで。
近鉄奈良から近鉄京都へ直通する列車は「特急だけ」ということなので(改札氏談・この時間帯だけ?)、一旦大阪難波行きに乗って大和西大寺で乗り換えました。
名物のポイントを見物しようとしたら、50000系「しまかぜ」が走り抜けていき、この旅で見た「しまかぜ」は後にも先にもこのときだけ。
模型は既に持っているので、乗車体験を重ねたいのですが、なかなかその機会が巡ってきません。
また次の機会をつくりますか。





そして、京都に戻ってきました。

ここではちょっとした近鉄特急の撮影タイムに突入。
30000系ビスタEXが、新塗装と旧塗装のそろい踏みでした。
こんなことを書くと、なんだかトミックスのまわしもののような感じですが、そういうことではありません。





まずは、ビスタEXの旧塗装。
んー、これは買いませんでした。
このスタイルなら登場時の方がいいと思って…。
だけど「EX」のロゴだけはカッコいいんですよね。







そのビスタEXが、2016年から新塗装に衣替え。
それがこちら。
昨日、模型店に並んだのはこの新塗装バージョンです。
ジャストタイミングでの記事更新となってしましたが、狙っていた訳ではありませんのであしからず。
でも、どうせリニューアルされるなら、このくらいデザインの振り幅があった方が意味があるというか、見ていて面白いと思うんです(それぞれのファンの好みですから)。


で、先ほど、近所の量販店から持ち帰っちゃった…(あらまあ)







異形式との連結も、やっぱり大胆ですよね。
昼に見たシリーズ21との混結と同様、規格が全く違うように見えます。
近鉄車両の遊び方は、結構奥が深いのかもしれません。
特に、デカイのが2両くらいくっついているのは当方にとってはツボ。
この編成はダブルデッカー車も入っているのだから、編成が超デコボコで、なおさらアピール度が高い。
Nゲージで再現したい編成です。



*     *     *



少し近鉄ホームで遊びすぎてしまい、外国人観光客に占領された京都タワーの横をすり抜けて五条のホテルに着いたのは20時過ぎでした。




部屋に入ってテレビを付けたら、KBS京都で「必殺仕事人Ⅴ 激闘編」を放送していました。
これを見て「なんという粋な計らいをするテレビ局か」と感動。
だって、京都にはワンサカと外国人観光客がステイしているのです。
夜の20時にテレビのスイッチを入れたらこんなものが映るんですから、これ以上の「おもてなし」は無いんではと思いますよ。

もう一度、必殺ブームが再燃しないかな…。
できれば金曜日の22時枠で。
あの時間は、一週間の嫌な出来事を画面の中に置き換えて脳内処理できるので、最高でした。

なお、放送していたのは第16話『主水、クモ男を取り逃がす』。
参考までに、当方が一番気に入っているサブタイトルは、『りつ、ハウスマヌカンになる』です。





お昼に日本橋の“序”で買った、RhBのGE4/4IIを枕元に置いて、日付が変わった頃に寝ました。

これにて3日目終了。
旅もそろそろ終わりに近づきました。
4日目は、京都です。


(つづきまーす)

  1. 2018/03/24(土) 23:40:00|
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ハイタウン石切(後編)

「ハイタウン石切(前編)」編からつづく)




実は、この石切という場所には「石切劔箭神社」(いしきりつるぎやじんじゃ)がありまして、地元では親しみを込めて「石切さん」と、そう呼ばれているそうです。
“西の巣鴨”という位置付けでもあると聞いていて、当方は大阪平野の眺望を目的としてやってきましたが、それなりの観光参拝(?)需要があるということが発見でした。





その石切さんへのアクセスは、近鉄けいはんな線・新石切からの方が“地形的には”楽のようです。
近鉄奈良線・石切からは、かなりキツイ坂を下りることとなるので、年配の方々には抑速ブレーキがないと少々危ないような気もするんですけど。

しかし、その坂道はたとえ斜めでも「石切参道商店街」と称している立派な商店街でありまして、傾斜地感が出た背景が、商店街としてはステキ。
地形の角度だけを見れば、ヤギを放牧している中国の山奥とか、もはやそういう類です。

おばちゃんが犬の散歩をしながら、知り合いのお店に他愛のない挨拶をしていました。
その土地土地の何気ない日常風景を見れば、それはもう、れっきとした「観光」なのですよね。





黄色いのは「ハンカチ」なのか「旗」なのか。
それとも宇宙との交信なのか、なんらかの爆撃目標なのか…

商店街を歩いている間、頭上でやたらパタパタと目立っていて、だけど正解がよくわからない不思議な装飾。
とにかく、縁起のよいものとして張り巡らせていることは見ていて伝わってきました。





石切参道郵便局まで降下してきました。
ここも勾配の途中のようでした。
もちろん目的は貯金で、ついでに風景印もと思ったら残念ながら備えていない局とのこと。
黄色いハンカチのようなものにはラッキーな効果はなさそうだということがわかりました。

この日は気温が高くなり、2月末なのに完全に4月の陽気。
少し汗ばんできました。
当方は参拝客ではないので、この郵便局を折り返し地点にして、今度は来た道を逆に、石切駅方面へ「登山」開始。





商店街には占いのお店が多いようですね。
お年寄りに限らず、いろいろと悩み事は聞いてもらいたいものです。
時間があれば、例えば「カトーからクモヤ495なんか出ませんかね」とか、今後のNゲージの新製品をいろいろ占ってもらいたいところなんですけど、それはまた別の機会に。

お年寄りにシフトしているのかと思いきや、クレープ屋もあったりして、個性的な参道商店街でした。





参道の途中にある石切大仏は、日本で3番目に大きい大仏だそうです…が、その辺はよくわかりません。
どこかにその根拠が書いてあったのかなぁ。
鎌倉のよりも小さくて、ココのよりも大きいのを、日本のあちこちで見たことがあるような気もしますが「おまえ、ちゃんと測ってみたんか」と言われれば反論もできないので黙っていることにしました。

でも、見たことがあると思うのですが…。





生駒山地から流れてくる川を見ると、まさに急峻な地形を表していて、好きなんです、こーいうの。

川に面した家々では小橋を掛けたりしていて、その上には決まって「植木」。
大雨のときには心配も増すことと思うんですけど、通常時は、こんな風にのどかな時間が流れています。
こんなよくある景色をレイアウトにうまく再現できれば楽しそうです。
「あー、こういうのあるある」ってな風に。





近鉄奈良線のガーター橋の下まで戻ってきました。
午後2時頃なので、大阪の街も霞んでしまっています。
ちょうど小型車が通りかかりましたが、こんな風にソロソロと走っているだけなので、本当に静かな土地のようでした。





そして、大阪へ下っていく列車が乾いた音を立てて通過していきました。





はるか向こうには「あべのハルカス」。
なので、あそこが天王寺だと。
さっきまで居たところ、となります。
鉄道って、こんなところまで人を簡単に運ぶことができるんですね。





とにかく暖かい日でした。
日程的に春の雰囲気を楽しめる旅だとは思っていなかったので、なんだか得した気分で。





間違いなくここ石切は、大阪平野の街を遠望できる、高低差のある場所でした。
アップダウンが大変なようで、その分生活に苦労されている気配もありますが、普段からこうした風景を見ていれば、差し引いてもプラス要素が残るんでは、と勝手に想像します。

夕暮れ時までいたい気もしましたが、何事もほどほどが肝心でして、駅に戻って次のプランへ移ることにしました。





8000系が入線。
「普通 西大寺」とありますから、優等列車を待避するのでしょう。
こんな山の上で土地の余裕もなさそうなのに。
列車の運行としては不思議な感じが残ります。





ホームに降りて、その列車を観察しました。
近鉄の電車といえばこの方向幕を後付けしたスタイルかなと思っていて、これだけは昔から見続けています。
Nゲージでは設計泣かせな部分ですかね。





でもビックリなのが、最後尾の2両がシリーズ21タイプの9020系であること。
これぞまさに“異形式混結の美学”です。
車体断面というか、車体の規格そのものが違う気がして、なんとも大胆な混結編成じゃないですか。
国鉄型気動車でもこんなチンドコ編成がありました。
こうした編成の面白さは、やはり現地で見て体感しないとわからないものだと思うんですョ。
この編成、模型で再現したらさぞや面白いだろうなぁ…と。





新生駒トンネルを走り抜けてきた通過列車。
トンネルを抜けたらいきなり西陽が当たるのですから、大阪へ出たことを体感できる瞬間なのかな。
鉄道にはそういうシーンが所々にあります。





そして、駆け下りていきました。





代わりに登ってきたのは、阪神9000系。
阪神電車がこんなところを走っていることこそ、関西の私鉄のネットワーク化が進んでいる証。
ここから三宮へ1本で行けるというのは、関東っぽいようで面白いです。
やっぱり寝過ごしたら奈良とか神戸まで運ばれてしまうんでしょうか。





そして、いよいよ石切を後にする列車がやってきました。
やっぱり最後の2両は9020系みたい。
そういう編成ルールなんでしょう。




総じて石切は、鉄道の旅を楽しむ上では「十分な場所」でした。
地形や駅の立地だけでなく、列車本数が多いので、観察しているだけでも飽きないし面白いのではと。
そして、隣接する参道商店街の奥ゆかしさ(笑)。
エンタメ性もあるので、撮影派の方々が家族と来ても「クレープ食べといて~」「占ってもらっといて~」と誘導すればいいのです(やや無理があるな)。
旧トンネル、旧駅など観察する場所はまだありますから、再び訪れてみなければならないかもしれません。

名残惜しい気持ちを堪えて、新生駒トンネルへ入っていきました。
好きなことに拘り続けるのではなく「トンネルの向こう側」も見てみる勇気を持たなくてはいけませんね。
たぶん、そういうことなんです。



(つづきまーす)
  1. 2018/03/22(木) 22:30:00|
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ハイタウン石切(前編)

「日本橋ヒットアンドアウェイ」編からつづく)


2月27日(火)、旅の3日目の話のつづきです。




でんでんタウンを抜けて、PASMOで地下にある近鉄難波線・近鉄日本橋のホームへ降りてみたら、タイミングよく賢島へ向かう30000系ビスタEX(新塗装)が通過していきました。





ところで近鉄難波線は、大阪上本町 → 近鉄日本橋 → 大阪難波という僅か2.0kmの地下路線で、1970年に開業しました。
さらに大阪難波から先は阪神電車と直通運転をしています。
これは2009年のこと。
このときに「上本町 → 大阪上本町」「近鉄難波 → 大阪難波」にそれぞれ改称されたそうです。
そういえば、この前の日には、阪神電車区間で奈良行きの電車を見ていました。
私鉄のネットワーク化はJR西日本アーバンネットワークへの対抗か…。


この近鉄難波線は近鉄奈良線と一体化したダイヤとなっていて、上本町も地下ホーム。これに対して大阪線の列車は上本町止まり(地上ホーム)です。
ただし伊勢志摩、名古屋方面へ向かう特急については難波線へ乗り入れる列車もあるということで、少しややこしい。
京王線の新宿と似てはいるようですが…。

大阪の鉄道には、本来のターミナルが各路線で結構バラバラに設けられたため、後年にそれを補正する動きが見られる、というやや共通した特徴、傾向があるみたいです
(関東もそういう歴史はあることにはあります)。



◻︎ ◻︎ ◻︎



さて、3日目の真の目的は、この「近鉄奈良線」でした。
でも、なぜ特急がバンバン走る大阪線ではなくて奈良線を目的とするのか…。

それは、生駒山地を抜けるプロセスに大きなストーリー性を感じるから、なのです。

関東平野に住んでいると、とにかく街を見下ろせる地形が見当たりません。
「平野」ですからそりゃそうなのですが、例えば多摩丘陵の東の端の稲城市、そのニュータウンから新宿方向に臨む景色とか、そんな場所しかないのです。
それも車でアプローチするしかないような所です。
それだけ「関東平野は大きい」ということかと。





一方、大阪平野。
こちらも似たようなものかと思っていましたが、関東平野とは少し事情が違うようで、生駒山地が南北に屏風のように位置していて、平野の広がりを遮断しています。
つまり「その裾野には大阪の街を臨む場所が存在しそうだ」ということなんです。

そして、その山地を近鉄奈良線が貫いているので、ならば、そんな場所へのアクセスも容易なはず。
ここ数年は、こんな風に近鉄奈良線に対する興味をずっと温めてきました。
この機会に、その生駒山地越えを丁寧に観察しておこうということで、関西方面を旅先としてからは目的地としてロックオンするまでにさほど時間は必要としなかったように記憶しています。





という訳で、近鉄日本橋で乗り込んだのは、急行奈良行き。
9820系は“シリーズ21”です。
そういえばこの表示は、2日目の午後、阪神電車で見かけたものだと気付きました。
宝塚へ行かずに阪神電車でここまで来ることも可能だった訳です。





地上に出て、複々線区間を東へ。





正面に生駒山地が見えてきました。





瓢箪山を過ぎると、いよいよ生駒山地越えに取り掛かります。

まずは、北向きに方向を変える作業から。
ココのポイントは、篠ノ井線の姨捨や中央東線の勝沼ぶどう郷のように、まずは山の裾野に取り付いてから、等高線をひとつずつまたぐように丁寧に登って標高を稼ぐプロセスがあるというところです。

なので、我が乗車車両も東向きから90°向きを北へ変えて、モーター音を唸らせながら登り始めました。








勾配は33‰に達するんだそうです。
神戸電鉄といい、アップトリムに取り憑かれた旅でした。





そして、目的の地・石切に到着。
この先が新生駒トンネルですから、大阪方の最後の駅、となります。
つまり、瓢箪山を過ぎると枚岡、額田という2つの駅がありますが、その先にあるこの駅が一番高い場所にあるということ、なのです。
その標高104m。
瓢箪山は50m程度だそうですから、結構登りました。





山地の斜面にありながら、ホームは2面、線路は4線となっていて、急行も止まるし、始発列車もあるようだし。
なんだか不思議な感じがします。





新生駒トンネルの抗口はホームの奈良方から見えました。
難波方面へ下っていく列車が飛び出てきて、ダイヤも思っていた以上に過密。





橋上駅舎から外に出てみました。
住宅街と言うべきなのか、それも田舎の入口と言うべきなのか迷う雰囲気で、とにかく静か。
近くに大通りもないので、車の音も聞こえません。

こんな駅ですが、想像していた通りの風景は見ることができるのでしょうか…。





ありました。
平野を見下ろす景色が広がっていました。
想像していた通りのようで安心しました。
神戸のときと同じように、街を見下ろせる場所っていいなぁって。
ドラマとかマンガでは、よくこういう場所を効果的に使いますよね。


ちょっとこの辺を散歩してみることにしました。
そのあたりは次回で。



(つづきまーす)

  1. 2018/03/20(火) 23:40:00|
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日本橋ヒットアンドアウェイ

「大阪潜入」編からつづく)




此花桜島郵便局で貯金を済ませた後は、時間帯の問題なのかわかりませんが、ガラーンとした商店街(?)を通り抜けて、天保山渡船場へ向かいました。
そういえば、20年前にココらへんを歩いた記憶がフワフワと。





看板が無ければ絶対に分からない、素朴すぎる乗船場で、子どもを乗せた自転車を押すママさんとか、営業中のスーツ2人組(先輩と後輩?)とか、当方のように旅行中と思われる夫婦とか、様々な人たちがパラパラと集まってきました。
この堤防の向こう側にそんな待合室がありました。





タダで乗れる船がやってきました。
大阪市のあのマークが付いているので、それで間違いないとわかります。
よくもまあ、近年の大阪市政の荒波を乗り越えて無料のままで続いたものだと。
20年の間には、そんな嵐もありましたよね。

対岸は「天保山ハーバービレッジ」。
標高が低すぎる天保山(4.53m)は割と有名で、幕末には外国の軍艦が近づいたり、砲台が築かれたりと、歴史趣味の中で目にするキーワードです。





大阪湾を行き交う船舶。
鉄道ばかりの旅の中に、ほんの少しだけの船旅というのも悪くない要素で、ここが大阪だと思えばなおさら。
関門海峡も渡船で渡ったことがあり、そのときも旅の中の変化球にはとてもイイ移動手段だと思いました。





スタッフと呼ぶには抵抗がある「船のオッチャン」たちによってすぐに対岸に渡されると、遠くには大阪の都心部が見えていて、この渡船がデジタルな都会の中の“アナログシステム”であるというところに大きな魅力がある。
オッチャンたち、ありがとうございました。







「天保山ハーバービレッジ」には、1990年頃から「海遊館」や「天保山大観覧車」「天保山マーケットプレイス」などがあります。
横浜もYES89の後にみなとみらい21地区の開発が本格化しましたから、要は全国的にウォーターフロント開発がブームだったということなのでしょう。
このブームが港湾倉庫などの施設を次々となくしていき、刑事ドラマによくあるロケ地は消えていきました。
「バブル期の中だった」という要因分析だけで終わらせたくない気もしますが、どうでしょうか。





火曜日の朝でも遠足の団体や外国人観光客などで賑わっていました。
後者については、団体というよりも個人、小グループでたどり着いた雰囲気が目立っていて、アジア方面から来る方々が、インターネットでいろんな情報をキャッチして漏れなく関西地方を回っているようです。
ですから、その行動パターンは、ほとんど日本人観光客と変わらないと思いました。





大阪築港郵便局でも貯金。
お金は貯めるんです!
すぐおろすけど!







そして、大阪市営地下鉄中央線・大阪港から鉄道の旅を再開しました。

中央線は近鉄けいはんな線と相互乗り入れを行なっているため、ここで遂に家電製品のような顔をした近鉄7020系が登場。
7020系は、2004年から、けいはんな線生駒・学研奈良登美ヶ丘間の開業に合わせて製造されたグループで、いわゆる“シリーズ21”に準拠した設備を持っているんだとか。
第三軌条方式(750V)の近鉄電車、です。
たまにありますよね、大手私鉄でこういう規格の異なるやつ。

これで弁天町まで移動。
弁天町からは、再びJR大阪環状線に乗ることにしました。





その大阪環状線の弁天町ホームです。
内回り電車を待っていると、外回りには221系リニューアル車がカッ飛んできました。
リニューアル車も3日目ですっかり見慣れており、カトーの新製品を待つ気持ちに。
こーいうのを「変節」と言うのです。





んでもって、内回り線には特急「はるか」。
大阪環状線を走る電車は実に多彩で次に来るのはなんだろうかという面白さがあります。
要は、環状線でありながらながら、放射方向への輸送も担うこととして、そのルーツは昭和40年代終わりのこと。
環状線を1つの駅のように捉えて、放射部のターミナルと結んでいるようで、この合理的な発想は繰り返しになりますがら山手線では真似できない芸当です。





また323系電車がやってきて。
実は、そろそろカトーから発売される頃なので1人でソワソワしています。
旅に出る前は「これは自分には関係ないなー」と思っていたのですが、旅から帰ってきたら気になって気になって仕方がない。
そうなることは、大方予想していました。
自分からそのテリトリーに入ってしまったのですから。
323系はトミックスの顔もいいと思うんですが、塗装と印刷を加味すると総合的にはカトーの方が満足できるのではないかと(ブツブツ…)





今度は、天王寺を目指しました。
反対からやってきたのも323系。
大阪周辺ではこの顔が大量発生していて、関東に帰ってきてからもトラウマになっています。
そのうち、横断歩道の向こう側で待っている人たちもこの顔になるんじゃなかろうか…。
ネット上では誰かの顔に似ているんだとか、そんな話で盛り上がっていますよね。
当方、そんな話題が大好きだったりします。







天王寺で世代交代の並びを見ることができました。
交代完了の時期もそろそろのようですから、201系との並びも過去のものとなるのでしょうか。





ここから阪和線に乗ろうと思っていたんです。
せめて三国ヶ丘くらいまでは行って、帰りは歩いて南海電車で、とか考えていたんです。
が…

桜島~天保山の移動で結構な時間を使ってしまい、午後に訪問を予定している目的地での時間が圧迫されそうな気配になってきました。
よって今回は泉南地域へ足を踏み入れることは断念。
計画性がないと、こうなります。





その後は、新今宮へ1区間引き返して、大阪市営地下鉄・堺筋線でさらに恵美須町へ1区間移動。
効率が良くないと思える移動を繰り返してしまい、そこまでして日本橋を強行偵察することとしました。
やっぱり模型をやっているんで、どうしても関西の総本山のようなお店は見ておきたいもの。
せめてもの、関西の同好さんたちへの表敬です。
でんでんタウンを南側から侵入。





まずは「ジョーシン・スーパーキッズランド本店」。
いわゆる“序”の本店、総本山です。
その“序”の鉄道模型売り場は、当方の住まいの近くにもあることはあるので、なんとなく品揃え、店頭の出し方は「こんなもんか」と想像していました。
例えば、ビニール紐で縛られた、デッドストック風の車両ケースとか。
よく見るんです、そういうやつを。
もちろん名古屋・大須は例外ですョ。

が、その例外である大須も越えた品揃えには驚きました。
カトーのASSYパーツはもちろんのこと、サードパーティのインレタが整然と壁にぶら下げられていたりして、量販店と専門店のハイブリッドという雰囲気。
こうしたパーツを扱うには、問屋に頼らない一定の知識が必要のはずで、家電量販店なのにそれをやれるスタッフがいるということなのでしょう。





もう一つは、定番のココ(笑)
実はこの前の日の晩にも京都店を訪問しており、この旅3日目にして関西地方の4店(神戸店→梅田店→京都店→日本橋店)をクリア。
なにか景品をもらいたいくらいです。

ココではカトーの阪急9300系を見せてもらいましたが、やや難点があったのでやめてしまいました。
親切に対応してもらったのにすみませんでした
(というか、旅の途中なのに無意識のうちに車両ケースを持ち歩こうとする自分が恐ろしいです)。

もう少し日本橋の模型店を回りたかったけど、持ち時間を考えるとここら辺が潮時。
撤退信号がバシューッと打ち上がったような気がして、そのまま徒歩で近鉄日本橋へ離脱しました。
南から北へ。
1時間に満たない「日本橋攻略」でした。

のんびりとするはずの一人旅が、だんだん慌ただしくなっていて、思えばこの頃から態勢を立て直す必要性を感じてきたんだと思います。
このままじゃ、都会をぐるぐる回っているだけの旅行になってしまう…!

そんな反省もあり、近鉄日本橋からの「予定していた旅」は、その混乱を補正する、ちょっとした癒しのミニトリップとなりました。



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  1. 2018/03/19(月) 23:40:00|
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