(その1からつづく)

8月4日。
この日は、のと鉄道に関係してもう少しだけ鉄分補給をすることにしていました。

2005年に廃止されてしまった穴水ー蛸島間。
旧国鉄能登線に該当する区間です。
その終着駅が、蛸島(たこじま)駅でした。
危うくクルマで通り過ぎてしまうくらい自然に、駅舎がそのままの姿で残存していて。のと鉄道の廃止区間では、このように駅舎をそのままにしているケースが多いようです。解体するにも費用がかかる訳ですから。
しかし廃墟のようで痛々しい。

ごめんなさい、ちょっとだけ見せてください。
ということで駅の裏側。
なんとなく思い出がよみがえります…。
1986年3月27日 国鉄能登線・蛸島駅にて
1986年3月27日 国鉄能登線・蛸島駅にて 急行「能登路」号
まだ「国鉄」だった頃、乗り鉄仲間のM君と七尾線、そして能登線に乗りました。
金沢から(キハ58+キハ28)×3=6両で発車する「能登路」は、最終的にこの蛸島へ2両で到着。
駅のホームには、同じく乗り通したと思われる鉄道ファンが。金沢から一緒だったのかも。
こういう時代でした。
その後、北陸ワイド周遊券の「G券」をフル活用するようにバスで輪島を目指したことは、以前にも書いたかもしれません。
あらためて思うのは、このような能登の最奥地であるような場所(失礼)であっても、若僧が若僧同士で訪れていたということの面白さ。
そして、30年経った今でもこの地を思い出として記憶しているということ。
「鉄道がある地」と「無い地」とでは、このような違いがあると思うのです。

その蛸島駅。
30年の時を経て同じ場所に立つと、こうなります。

そしてそして、穴水方面を見てみる。
大きく右へカーブした線路跡の奥に視線を集中させると…

本線上にNT102形が。
いろいろと経緯があってこのようになっているそうなのですが、車両ごと残っている廃線跡は見ていてつらい。

国鉄線だったことを示す「遺跡」は、セミが外に出ていくための施設としてちょうど良かったみたいです。
蛸島駅にたどり着く途中、珠洲市街を通り抜けてきましたけど、商店街らしきところは見事にシーンとしていました。
空気が動いていないのです。人の気配がまったくないから。
街にコアが無くなって、そして街に人を呼び込むインフラが無くなってしまうとこうなるのか。
1980年代の地方交通線の廃止ラッシュ、分割民営化後の相次ぐ廃止。
そして今、北の大地での鉄道の在り方がクローズアップされてきましたが、このこととリンクさせて考えざるを得ない、残念な廃線跡でした。
そろそろ「鉄道」というインフラを、別の見方で捉え直さないと手遅れになりそうで怖いです。
過疎で苦しむ日本中の地域から見れば「鉄道が繋がっている」という強いアドバンテージをどうして自ら手放そうとするのか理解に苦しんでいるのでは、と。
地方の鉄道を新しい価値観で見るようにならない限り、“地方創生”なんていう掛け声は“ふるさと創生”と同じ響きに聞こえてしまいそうで。
蛸島駅の廃墟は、そんなことを語っているような気がします(オーバーですね)。

この後は、能登半島最先端・禄剛埼灯台へ。
回りはどこを見ても「日本海ブルー」でした。
太平洋側の住民としては、この青さは貴重。
暑さが障害にならない日だったら、いつまでも見ていたい海でした。

そして、白米千枚田。
やはり日本海の青と組み合わさる緑は見ていて飽きません。
能登の観光ポテンシャルは高い。

輪島で1泊。
温泉民宿「海辺」さんのお刺身2人前(別料金です)。

「海辺」さんのオススメもあり、夕食後は歩いて10分くらいの「輪島キリコ会館」で御陣乗(おじんじょう)太鼓を見てきました。
最近、当方はこのような芸能もちゃんと興味を持って見ることができるようになりました。
蛸島駅で写真を撮ってから30年も経てば、そうやって視野が広がるようです。
あのとき、蛸島駅まで来ていなければ、こうして輪島にはいなかったかもしれません。
奥能登には駆け足でダイジェスト的に見て回っても、これだけの魅力が散らばっているのでした。
(その3へつづく)
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- 2016/08/15(月) 07:00:00|
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