しなのさかいの駅前広場

みんな考え始めているようです。いろいろと。

続・旅のおみやげたち

こんばんは。しなのさかいです。




「関西旅行の思い出」を振り返る作業、というか遊びは、当レイアウト上でまだ続いています。
今回は、カトーから発売された225系5100番台(関空・紀州路快速)タイプをテーマにしてみました。
323系とのすれ違いを再現してみたくなったことを直接の動機としつつ、再生産の可能性が低いことや(されないと決まった訳ではないでしょうが)、4両というこじんまりした編成という点を導入のハードルの低さとして考えて決心しました。
この趣味、何事も「決心」が必要なのです(そんなオーバーなことでもないか)。





例によって、箱は赤いやつ。
が、いつの間にか「ROUNDHOUSE」ブランド
から「KATO」ブランドに移行していました。
カトーの中で政変とかクーデターでもあったのでしょうか。

まあ、そんなことはどうでもよくて、要は223系2500番台タイプを持ったままにしていたので、これと併結させてみようという企みです。
この2500番台が無ければ、今回の製品をダブルで導入するところでした(!)





転落防止幌がない223系との併結ですから、225系の方に黒い部分まで再現された転落防止幌を取り付けながら連結させることが可能。
過渡期のスタイルを再現させることも、また味わい深いものと言えましょう(実際のところはどうだったのかよくわかりません)。
互いに動力ユニットはトラクションタイヤが無い仕様となっていますから、併結しても走行がスムーズです。





行き先表示器には「関空快速・関西空港」という印刷が施されていて、箱から取り出してすぐに遊べます。

粒子の細かいシルバー塗装の質感は相変わらず上品で、難しい“関空帯”のグラデーション印刷もトミックス製品よりはリアルに思えました。

ただ、これはカトーの223系、225系や313系に共通して言えることなんですけど、窓の高さに印刷されるマットなグレーの帯(?)については、工場の組立工程か何かで“引っ掻いた”ような跡が散見されます。
今回持ち帰ったものにもそんな跡がありましたので、エアーブラシでつや消しクリアを吹いて目立たなくしよう(消そう)と思っています。
あ、消しゴムでやるとテカってしまいますからね。

それから、座席が2+2となっている点が“タイプ”と称される所以なんですけど、それはもう許容範囲ですよと言いたい(^ ^)
そんなことで“タイプ”と称さなくてはならないなら、“タイプ疑惑”のある製品は他にたくさんありますから、そこまで正直になる必要もないのかなーと。





トミックス製品は“タイプ”と称さない、座席配置を2+1とした製品。
また、カトーとトミックスとでは微妙にその輪郭が違うような気がしたので、当初は「トミックス製品にしようかなぁ」と考えていたんです。
でも、カトーの顔も似ているんですよ。
ていうか、決定的な違いはそんなにないなと。
それと、当レイアウト上では「この顔は統一されていた方がよい」という気もしてきて…。

なお、数年前のことですが、225系5000番台タイプは顔の輪郭が違っていたので導入してもすぐに手放しました(残念)。







JR京都線・JR神戸線用の100番台とは異なり、5100番台は、前面に帯が回らないシルバーだけのスタイルで、この精悍な顔つきがやみつきになるんです。
さらには、こういうのが大阪環状線に入ってくるというところも面白いじゃないですか。
鉄道の世界にも「オーサカ ディープ ゾーン」は存在するのです。



やはりカトーには、転落防止幌の取付けを機会とした、223系2000番台/2500番台、225系0番台/5000番台の「顔」をやり直してもらいたいですね。
皆さんはいかがでしょうか。





(おまけコーナー)



カトーの321系の行き先を「新三田」にしてみました。
ボディを分解して、行き先パーツを差し替えて再組立、という作業を7両分繰り返し、1時間ほどで東海道・山陽線仕様からJR宝塚線仕様へ衣替え。
こんなことが簡単にできるのに、ずーっと差替え用パーツをほったらかしにしていたのです。
そういえば、このパーツは未だに店頭在庫として残っているお店がありますよね。
気がついたらなくなっているかもしれませんョ。
それにしても、遊び方が広がる良い仕様でした。





これでまた、旅を振り返ることができる編成が増えました。

生瀬、西宮名塩、武田尾、道場…
たとえ21世紀にデビューした通勤電車であっても、風光明媚な場所へ連れて行ってくれる変わった電車、という事実に触れたことが手元の模型を再発見するきっかけでした。
しかもその区間が、れっきとした通勤区間である、というところがまた実にいいのですよ。

旅のおみやげたち。
やめられまへんな。


ではまた。


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  1. 2018/04/23(月) 23:20:00|
  2. 鉄道模型(車両)
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旅のおみやげたち

こんばんは。しなのさかいです。

長い間、旅行記ばかり書いていたので、いろいろなことがあっても、ココではそのままにしていました。
この間、とうとう下の娘も、キレる教諭だらけの小学校をなんとか卒業し、そして我が家の「小学校生活」もおしまいになったりと、そういうことがいくつかありました。





それから、今年の桜は山梨・勝沼で見ることができた、という話もメモしておきます。
3月31日のことで、その日はちょうど週末の土曜日でした。
家族全員で「行ってみようか?」という結論を出したのは、その日の昼過ぎだったと思います。
そんな時間に決断しても車で1時間程度で甲府盆地に達することができるのですから、現居住地は結構気に入っています。
通勤時間を短くすることよりも、家にいるときのことを考えて出した「答え」でしたので、こうした効能があるとそう思うのです。





鉄道の撮影をしている人たちは、勝沼ぶどう郷駅ホームの甲府寄りの端にギュッと固まっていて、時より笑い声が聞こえてきたりと、仲よさそうでした。
あ、当方は旧駅跡から眺めていただけです。





それから。
この季節の甲府盆地は桜だけでなく桃の花も満開を迎えます。
時刻は17時を回る頃でしたが、ちょっとだけ標高を稼いで盆地を俯瞰したら、ところどころがピンク色の絨毯になっている様子を見ることができました。
関西の旅でもそうでして、最近はこういう景色ばかり見てボーっとしている気がします。
来年も無事に、家族全員で見ることができるでしょうか…



□ □ □



旅行記ばかりの日々でしたので、鉄道模型の遊び方を忘れかけていました(笑)
こーいうときは、Nゲージの遊びを“走らせること”から再開するのは王道でして、それならばと関西の旅を振り返ることができるような遊び方をしようかと考えました。
ちょっとみっともない内容ですけど、お付き合いください。





まずは321系。
当方にとって、カトーの321系は「買ったけれど」という車両の中の代表例のようなもので、この車両がデビューした2005年頃は、育児期間の真っ只中。
それ故に、関西からは大分遠ざかっていましたから、とりあえず“アーバンネットワーク”ネタとして手にしていた、というのが購入動機だったと思います。

おかげで今回の旅ではすっかり馴染み深くなってしまい、方向幕をJR宝塚線の黄色いやつに変えてみようかと考え始めています。
出来ればピンク色の方が良かったんですが、模型では存在しないようなんですね。
京王百貨店新宿店から一度模型売場がなくなる時に、超格安処分品として買っておいたカトー純正方向幕パーツがありますので、その中から宝塚線用のモノを取り付けてみるつもり。
武田尾や道場の雰囲気を感じて楽しんでみます。

ですので、しばらくはこの7両編成がレイアウト上をぐるぐる回っていそうです。





カトーの225系100番台は、昨年の初冬に発売されていましたが、ずーっと、どうしようか悩んでいました。
大好きな新快速ネタではありますけれど、トミックスの動向もかなり気にしていて、0番台をトミックス製品としたことも少なからず影響しています。
しかし、塗装や表記類の印刷の細かさを見てしまうと、どうしてもカトー製の完成度を無視できず、8両セットを“ドカーン”と。
既に4両基本セットは売り切れていましたが、まぁ、こちらは再生産が期待できますから。

でね、何がいいかって、転落防止幌ですよ、幌!
あれだけ「幌が気に入らない」と言っていたのに、人間、転向するとあっけないもので(笑)、とうとうこの幌がないと不安に感じてしまう人間になってしまいました。





223系2000番台も顔面手術と同時施工で幌を付けてもらえませんかねー。
だからトミックスの動向が気になるのです。





こちらは、その転落防止幌が要らない323系。
カトーの323系 大阪環状線は、旅から帰ってきたら発売になりましたので、旅の3日目の思い出に浸ってみたくなりました。





225系と共にこの顔をよく見ていたので、夢の中にこの顔が出てきて頭上でクルクル回ってうなされてしまいそう。
先頭のカプラーはダミーで、貫通ドア窓のロゴマークが目立ちます。





ただ、この323系を「模型としても」面白そうだと思った点があります。
それは、この女性専用車・モハ322-27なんです。

大阪環状線改造プロジェクトにより、時間指定ではなくて終日を専用車としていて、そのことを視覚的に区別できるようにするために室内灯を暖色のLEDとしています。
ボディに貼られたラインカラーのシートも他の車のオレンジバーミリオンではなくて女性専用車用のピンク色としていて、単調になりがちな通勤電車の中のアクセントとしてはもってこい、というわけ。
このモハ322-27に純正のLED室内灯クリア電球色を仕込んでみたところ、編成の中の視線の注ぎどころとして効果バッチリでした。

山手線の車両は絶対に買わないけど、大阪環状線の車両は買う…
同じループラインなのにこの違い。
大阪環状線の持つ特性からのものなのですが、そういう思いを持つユーザーは当方だけではないはずです。





「おみやげ」は終わらないのです。
カトー謹製 阪急9300系は発売後に話題となっていましたが、手を伸ばしていませんでした。
でもね、これだけ今回の旅でインスパイアされてしまったんですもの、阪急電車に(笑)
京都線も神戸線も楽しかったし、とにかく9300系は綺麗な電車でした。
あえて前パンで梅田へ向かう姿を求め、2016年ロットの通常品を手に入れました。
出来れば神戸線の車両もカトー製で見てみたいですが、無理かな。

6300系も京都線の車両ですし、何かと京都線ばかりにスポットライトが当てられていますが、六甲山地の裾野を走る神戸線の風景は面白いと思いました。
もう、ここら辺まで来ると自分でもやり過ぎだと思っています(^ ^)





始末の悪いことに、323系のようにタイミングよく発売されたものがもうひとつあるんです。
それが、トミックスの近鉄30000系 ビスタEX(新塗装)です。
顔の黒いデザインには賛否が分かれそうですけど、当方としては「EX化」後のデザインはこのくらい振り切っちゃった方がいいのではないかと思っています。
近鉄線内の様々なところに出没する車両であるというのもいいです。





EX化による新しい「VISTA CAR」のロゴマークも、旧ロゴと同様に凸凹表現となっていました。
室内灯はタムタムのTORMで、そのままではプリズムが目立つので両面テープで屋根裏に貼り付けてみました。
こうした応用も効くので、トミックスとマイクロエースの車両には都合よくTORM室内灯を使っています。





このように、関西から帰還して、楽しめる分野が爆発的に広がりました(その代わり財政出動も増えましたが)。
もともと関西の鉄道には興味を持っていて、実物を見ることが久しぶりになってしまっただけなんですけど、やはり「分野」が広がったと思います。
それだけ、閉塞感を抱えていた、ということなんでしょう。
「このエリアは興味がない」と決めつけてシャットダウンしてしまうのは少しもったいなくて、模型の世界では特にそうです。







それにしても、模型を走らせることで思い出が蘇っております。
例えば、「新快速」なら高速コンテナ列車との離合シーンが合うと思いますから、こんな風にして。
旅行記を書くことでさらに1か月間旅行を楽しんで、今度は模型で楽しんでいます。
「旅行代」という投資が何倍にも大きくなって戻ってきている、そんな感覚です…
ん?

いや、これだけ“おみやげ”を手に入れているんですから、戻って来るどころか大損なんでしょうね。
あらまぁ。

ではまた。


  1. 2018/04/16(月) 23:00:00|
  2. 鉄道模型(車両)
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名古屋発20時42分

「『神奈川県鎌倉郡小坂村』の謎」編からつづく)





敦賀市役所と市立図書館を行ったり来たりしてしまいましたので、少々くたびれました。
そんなところで都合よく、市役所の隣には「敦賀ヨーロッパ軒 中央店」があり、そこでランチ休憩とすることに。
この旅行でグルメ情報を流すことができたのは、初日の「豚々亭」だけだったと思うので、最後にこんな画像も良いでしょう。
といっても、同じ「豚」なんですけど。
ソースカツ丼、おいしかったですよ。
キャベツがあると色どりがもっと良くなると思いますけど、これで長い間支持されているようなので。

店内は、昔のデパートの最上階によくあった食堂、といった雰囲気。
明らかに「敦賀へは出張で来た」と思われる方々が、地元の営業所員に案内されて訪れていました。





レンタサイクルですので、思い出づくりにと考えて、市内をフラフラと。
市立博物館(元 大和田銀行)の建物を見たり…
ここは大和田伸也氏のゆかりのある銀行だったそうですね。





そこから続く古い町並みを見て。
それにしても、1人も歩いていません。
お店もポツポツと営業している程度で、閉まっているお店の方が多いみたいでした。
ゆえに、観光地というには少々厳しいかもしれません。
徒歩でここまでたどり着いていたら、体力の消耗と相まってガッカリしていたことでしょう。





まあ、当方は鉄道が好きですから。
鉄道スポットがあれば、とりあえずは行く訳ですよ。
そういう訳で、旧敦賀港駅舎までやってきました。
ココは、1999年の「つるが・きらめきみなと博21」の開催に合わせて再現された建物で、その外観は、1913(大正2)年竣工当時の姿だそうです。
中には、北陸本線に関係した資料が展示されていて、鉄道ファンならば楽しめる内容でした。
ただし、長浜鉄道スクエアと比べると見劣りはしますが。
あちらはすごいですよね。
なにせED70とD51が丸ごと収納されているのです。





ところで、この日の相棒を紹介しておきます。
つまり、観光協会で借りたレンタサイクルです。
電動アシスト付きの自転車なのに、全体的にゴツくて、なんとなく戦前の自転車みたいでした。
バッテリーを失うと、とても重くなるので、スイッチをオンオフ切り替えながら「持ち」を気にして走りました。
と文句のようなことを書きましたが、こうしたサービスが用意されていることは素晴らしいのです。
街に回遊性を持たせるためには、まずは手っ取り早くレンタサイクルでしょう。
周遊バスとか、そういうことは考えなくてもできるのです。





旧敦賀港駅舎の裏は敦賀湾。
海上保安庁の巡視船が係留されていて、ココが日本海であることがわかります。
山はところどころ白く、関西との気候の違いは明らか。
「越前」という国名の響きがこうした風景を表しているように思います。

なお、敦賀港は港湾法上の重要港湾、さらには特定港として指定されており、特に後者については常に外国船舶の入港が可能という意味を持っています。
軍事目的では舞鶴港がその役割を担っていますから、海上自衛隊の艦船は見当たりません。





そこから、さらにすぐ近くにある敦賀赤レンガ倉庫へ。
1905(明治38)年に石油貯蔵倉庫として建設されたそうで、2009(平成21)年に国の登録有形文化財になりました。
手前の倉庫は「レストラン館」で、奥の倉庫は「ジオラマ館」と称した鉄道模型ジオラマが有料で展示。
当方に限っては、あいにく鉄道のジオラマは間に合っているのでスルーです(笑)





明治38年のレンガ。
レンガは、見ていると落ち着ける不思議な素材です。

さて、ココは敦賀市の観光の拠点として活用されていくようですが、現状としては観光バスの休憩施設となっているようで、当方が見学している間に訪れていた団体客も、許された滞在時間は短そうでした。
入居するテナントも、地元のスイーツやレストランといった、食べ物をメインとした流行りのサービスエリア風であり、建物に入った瞬間に「買うものは何もないな」と判断できるほどで。
「じゃあ隣の建物に…」と思ったら、それが有料のジオラマ展示ですから。
行き場がすぐになくなる訳です。
地元との交流ができるような使途が備わると、もう少し面白くなりそうですね。
今後の展開に期待しましょう。







さらに敦賀港駅跡に行くと、トミックスが最近発売したISO 20ftコンテナがたくさんありました。
これだけ積まれているとすごいです。
近年、敦賀港はコンテナの取扱量が増えているそうで、これらもそうした中の一つなのでしょう。
ただし、ここからはトラックやトレーラーで運ばれて行きます。





おなじみの12ftコンテナも。
貨物の取り扱いはあるのに、「オフレールステーション」ってなんだか不思議ですよね。





そしてこれが敦賀名物(?)の「敦賀港駅ランプ小屋」。
1882(明治15)年完成で、旧長浜駅舎と並んで我が国の鉄道建築物としては最古のものだそうです。
2014(平成26)年にJR貨物から敦賀市へ寄贈されたとのことですから、それまで解体もされずによくぞ残っていたと思います。

明治15年というと、前述のとおり曽祖父の少年時代に当たります。
この場所にきて何かピンときたものがあったんでしょうか。
わかりませんけどね。





金ヶ崎・敦賀港へ続いていた線路は、このように閉塞されていました。

この何気ない線路について少しだけ余談を。
1906(明治39)年には敦賀-ウラジオストック間の定期航路が開設。
1912(明治45)年6月15日の時刻改正で、新橋-金ヶ崎間に直通列車が設定されたそうです。
新橋って、東京の新橋ですからね。
そことの直通列車です。
さらに、1919(大正8)年には「敦賀港(つるがみなと)」に改称。
その後、第一次世界大戦中には欧亜連絡運輸が廃止されましたが、1927(昭和2)年になると東京-敦賀間に1・2等寝台車の直通が復活しました。
マイロネフ37、マロネフ37などが充当されていたそうです。
「マイロネフ」っていう客車があったこと自体は知っていましたが、この頃にこんな場所へ行く乗り物だったんです。
なんだか「夢」のある「昔話」で、いいじゃないですか。

しかし、2009年3月31日限りで列車は走らなくなりました。
今後、この辺り一帯は敦賀市による鉄道をテーマとした整備構想があり、2018年度予算にはキハ28を購入する予算を盛り込んだそうです。
既にJR西日本とは、トワイライトエクスプレスの部品の譲渡を受ける協定も結んでいるとのことでありますから、今後の敦賀市の
「鉄分」に期待しましょう。

https://toyokeizai.net/articles/amp/210508?display=b&_event=read-body



□          □          □



気分としては、ここら辺まで来て「おしまい」でした。
今こうして振り返ってみると、ここから先は「帰り道」という意識に切り替わっていたような気がします。
寂しいけど仕方がありませんね。
今、こうして書いていても再び寂しさがこみあげてくるようで、不思議です。









駅へ戻らなければなりません。
途中、郵便局に寄りながら自転車で走りました。
閑散とした敦賀市内を。

それにしても、明治から昭和初期にかけて、欧州への連絡口として繁栄した面影は…、残念ながらありませんでした。
2016年に訪問したときは、郊外のバイパス沿いに東京近郊のそれと同じような景色が広がっていて、様々なロードサイド店がありましたから、どこか街づくりが「おかしなこと」になってしまっているんでしょう。
様々な地方都市でも同じような課題を抱えていることと思います。
北陸新幹線がやってくるまでに、こうした課題が解決されるといいのですが。





敦賀駅まで戻ってきました。
駅前もどこか寂しさが漂っていて、かつての鉄道の要衝だったとも思えません。
北陸新幹線によって、敦賀は関東の人たちにどう映るのでしょうか。
その開業予定は2022年度だそうです。
そんなに遠い未来ではないでしょう。


おみやげをいろいろ買い込んで、レンタサイクルを返却して、改札口へ。
さあ、ここからは名古屋までの在来線ミニトリップ。
帰り道ではありますが、楽しめることに化かすのは得意ですから、前向きに。





まずは第1ランナーで長浜まで。
前述のとおり、この日は爆弾低気圧の影響により特急「しらさぎ」が終日運休となっているため、普通列車での移動にならざるを得ませんでした。
ホームに待っていた長浜行きは521系。
それも、カトーが製品化した2次車でして、2両編成でした。
買った車両に乗れるというのはワクワクするというか、「俺、これ持ってるー!」と心の中で叫ぶというか、子どもっぽいワクワク感があります。
この日ももちろんそうでした。
223系5000番台と同じ(?)貫通路がある顔立ちは、さらに転落防止幌や貫通幌がつくと厳つくてカッコイイ。
これこそ「機能性の美」っていうやつですよ。
2セット買って4両編成にできるようにして正解でした。





よく見ると、485系とか489系という表示がありました。
名残はあるのです。


16時4分、発車。
新疋田を通って、越前と近江の国境越え。
2016年には、この国境を国道8号で越えましたが、今回は北陸本線でした。
国境越えというのは大きなイベントです。
車窓を眺めて、とても充実した時間を過ごしました。





16時54分、長浜到着。
521系から降りた乗客は、ほとんどここで第2ランナーの223系2000番台4両編成に乗り換えて米原へ向かいました。
乗換え時間は、僅か3分。
なぜか4両編成の223系には縁がある日でした。
これをもって脳内では、223系の4両はすなわち滋賀県内の姿、ということにしちゃいました。





16時57分に長浜を出ると、やがて琵琶湖が見えてきて、並走する車が。
奥が海に見えて実は湖であるところが、この地方の不思議な風景です。





そして17時10分、米原到着。
223系2000番台の前8両が待機していて、そこへ長浜から来た4両が連結。
新快速は12両化され、これから京都・大阪・神戸へ向かうはずです。
長浜と米原の間は12両に対応していないため、短い区間を短い車両で対応しないといけないみたいです。

もう一度そっちに戻りたいところだけど、残念ながら当方はここでJR西日本エリアとお別れ。
さらばJR西日本、さらば関西(何回もすみません)。





JR東海の311系が各駅運用で米原まで入ってきました。
さすがは境界駅。
思えば1989(平成元)年のデビューで、JR西日本の221系と並ぶ民営化の旗印のような車両でした。

1991年に名古屋から豊橋まで、新快速運用で初めて乗ったとき、その瞬足ぶりに驚き、たちまちファンとなったことを思い出します。
車内が211系とは違って落ち着いた雰囲気だったという記憶もあります。
ずいぶん前にマイクロエースが製品化しましたが、いわゆる「ダメなほう」で、買ってすぐに手放した苦い思い出があります。
もう時代とネタ的に模型化が望めない車両だとは思いますが、マトモな311系は欲しいです。
それだけ、民営化直後の時代は遠くになりました。





JR東海の313系が待つホームへ移動すると、コンテナ列車が通過していきました。
子どもの頃(国鉄時代)に乗り鉄をしていたときは、こんな風に貨物列車が駅のホームを通過していくシーンに驚いたものでした。
関東ではなかなかない場面でしたから。
何といいますか、「地方の幹線」というムードが満点なのですよ。
コンテナを積んでないコキとかが混ざっていたりするとなおさら。
特に米原駅はイイですね。
Nゲージでもコンテナ列車で積極的に遊ぶことにしましょうか。





さて、とうとうJR東海エリアへ入っていくことになる訳で。
大垣行きの313系は、0番台と3000番台との組み合わせでした。
300番台との組み合わせかと思っていたら、固定式クロスシートの3000番台でしたので、迷わず0番台の方へ移動。
すれ違う米原行きの列車には300番台が連結されていましたから、300番台と3000番台は共通運用なのでしょうか。
よくわかりませんが、313系がデビューした頃を考えると、3000番台が東海道本線を走るというのは、ちょっと意外(認識が誤っていたらごめんなさい)。
まぁ、カトーの313系は全て持っていますから、こうした楽しみ方もできるということを学習したということにしましょう。


そして、ここからは夕暮れ時の醒ヶ井や関ヶ原を通っていきました。
並走する国道を見ていると、以前に車で通ったことを思い出し、さらにはその時に「列車の方がいいな」と考えていたことを思い出しました。
いろいろな縁があって、今度はこうして313系の車内にいるのですから、おもしろいですよね。
それだけ、この大垣と米原の間の「隘路」は大好きな場所です。
よく考えれば、ここも国境越えでした。





濃尾平野に入って大垣。
乗ってきた313系は、そのまま特別快速豊橋行に変身しました。
0番台も特別快速の運用に入っていたんです。
知らなかった。
快速運用は5000番台限定だと思い込んでいたようです。
模型に施されたデフォルトの行き先表示に取り憑かれてはいけない、という典型的な例ですね。

だから、到着前の車内放送をよく聞いていなくて、大垣に着いた途端に降りてしまい大失敗。
座っていた席が必勝席だったのに、他の人に座られてしまい、とても惜しいことをしました。
模型だけで親しんでいると、0番台なんていうのはもう各駅運用しか担っていないように思えてしまい、全くもってダメですねえ。


これで名古屋まで一直線。
途中停車駅は、岐阜と尾張一宮だけです。
たったこれだけ。





名古屋到着です。
鉄道で来たのですから、駅周辺を歩くには自由が利きました。
よって、まず最初にナナちゃんは見ておかないといけないと思い、参拝。
一頃に比べると、衣装がつまらなくなった気もしますがどうなんでしょう。





「敦賀 ヨーロッパ軒」でカツ丼を食べたっきりでしたので、名古屋で夕食を済ませることにしました。
しかし、なかなか目ぼしい食堂や喫茶は夜遅い時間となったため営業時間外。
「1日中モーニング」なんていうところに行こうとしたら、閉まっていました。





新幹線の時間まで大分あったはずなのに、ウロウロ、ウロウロ、そして時間が。
クタクタに疲れ切ったカラダでたどり着いたのは、結局、エスカの「コメダ珈琲店」でした。
もう少しおもしろいところへ行きたかったんですけど、名駅の混雑ぶりが激しくて、思考回路がダウンしてしまいました。
近所にもあるコメダに入るのは、少し敗北感があるけど、名古屋グルメには違いないから(笑)

コメダでは条件反射的にみそかつサンドを注文してしまい、その瞬間「あ、ヒルメシもトンカツだった」と大反省。
油モノを1日に2回も食べてはいけないのです。



30年前の民営化直後は、まだまだ名駅周辺は静かで、20時になるとホームに人影はまばら、エスカは早々に営業を終えてシャッター街と化していたんですが、この混雑ぶりはナニ?
名古屋の人は家に帰るのが早いもんだと思っていたのに、ライフスタイルはすっかり変わってしまったようです。
どこも東京と同じようになっていくのが、旅行者としては残念。
ライフスタイルの違いはあってもいいと思いました。





そして、いよいよ東海道新幹線ホームに。
在来線ホームでは、夜遅くなのに383系がライトを光らせていました。
神領に帰る回送列車でしょうか。

名鉄にも乗っておきたかったと思いながら、それはまた次にしようかと。
そのときは、ぜひとも「アーバンライナー」で大阪難波まで行ってみたいなと思います。





ホームで待っていたら、とうとう「のぞみ254号」の表示が出てしまいました。
暗くて車窓も見えない夜の新幹線に旅のムードなど感じることもできません。
したがって、20時42分で「今回の旅はおしまい」ということになりました。



□          □          □



最初は面倒に思っていた「一人旅」でしたけど、いざ家族に送り出されてみれば、見るもの聞くもの全てが観光の対象であることに気づき、食事もろくにできないほどの時間の使い方となっていました。
それだけ夢中になるほど、今回の乗り鉄の旅には、大きく捉えて3つの収穫があったと思っています。



まず1つ目。
年齢を重ねれば、無意識のうちに蓄えた知識も多くなっているため、どれを見ても、そのビジュアルに意味があるようになっていた、ということです。
例えば、コープこうべの前でおしゃべりするおばちゃんを見れば、震災時のこと、神戸とコープは切り離せない概念であることとか、そういうことに気づいてしまう。
どれもこれも観光の対象となってしまい、それは嬉しい誤算でした。


2つ目です。
今後も鉄道模型を続けていく上で「背景が見える車両」が増えた、ということです。
20年前は、まだまだ模型化されていない車両が多かったですし、JR一辺倒でしたので、JRの主な車両を見て、帰ってからその模型をちんまり楽しむという比較的狭い価値観の中での遊び方でした。
しかし、その後はマイナーな私鉄車両が次々と製品化され、自分のテリトリーがその拡張ペースに追いつかなくなっていたのです。
車両の模型を手にしても、それが無味無臭であったり無機質であったりすると面白くありません。
このことは、自分が買うものに限りませんで、発売され、店頭に並んだ模型を見ることにも当てはまります。
それだけ車両から地域を見つめる視点とその領域を新しく広げることができたような気がするんですネ。


最後に3つ目。
これが一番大きいのですが、2/25~3/1のたった4泊5日の旅行を、こうして1か月以上に渡って振り返らせていただいたことで、旅が1か月間続いていたような、そんな気分でいることができたということです。
デジタルカメラで写真をたくさん撮っても、自宅に帰ってHDDに入れておしまい、ということにしてしまっては、何も発展しません。
1枚ずつ選びながら本ブログにアップさせていただきましたが、写真を選択する過程で、写真で語れること、撮影したときは知らなかったことなどを復習する機会がたくさん生まれました。
だから、今回の旅は、自宅に帰ってから今日までずっと続いていたのです。
そして、皆さんにどんなことを伝えられるのか、そういう思考を重ねる日々は、とても豊かなものでした。
それゆえに、デジタルカメラとiPhoneなどを手にした時代の「乗り鉄」は、発展性を持った面白い趣味だといえます。



という訳で、1か月に渡ってブログを更新し続けました。
お付き合いいただいた方には「感謝」という言葉しか申しようがありません。
もし、ほんの少しでも、当方の価値に寄り添っていただけた部分がありましたならば、それでこの旅日記の目的は達成です。
本当にありがとうございました。




今回の旅の記事のまとめ

【1日目(2月25日)】
「20年後に見る西の世界」(3/4)
「関西漂流(その1)」(3/5)
「関西漂流(その2)」(3/6)
「関西漂流(その3)」(3/8)
【2日目(2月26日)】
「王子公園駅のホームから海は見えるか」(3/10)
「神戸アップダウン作戦」(3/11)
「宝塚自転車駐車場が示す可能性と未来」(3/13)
「RETURN TO SHINKAICHI」(3/15)
【3日目(2月27日)】
「大阪潜入」(3/17)
「日本橋ヒットアンドアウェイ」(3/19)
「ハイタウン石切(前編)」(3/20)
「ハイタウン石切(後編)」(3/22)
「ならまちにて」(3/24)
【4日目(2月28日)】
「音川さんちを訪ねて」(3/26)
「万能電車 京阪800系」(3/28)
「湖西を巡って、再び京都へ」(3/31)
【5日目(3月1日)】
「敦賀で待つもの」(4/1)
「『神奈川県鎌倉郡小坂村』の謎」(4/5)
「名古屋発20時42分」(4/7)






名古屋発20時42分。
これにておしまいとなります。

ではまた。

  1. 2018/04/07(土) 21:00:00|
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「神奈川県鎌倉郡小坂村」の謎

「敦賀で待つもの」編からつづく)




京都から敦賀まで、223系2000番台によるダイレクトアクセスで簡単に移動できました。
滋賀県主導による北陸本線直流化と「琵琶湖環状線」の構築はこういう利便性をもたらしていたのですね。
さらには福井県側の主導も加わって敦賀以南は交流20,000Vから直流1,500Vへの転換が行われました。
2006(平成18)年10月のことです。


駅前を見渡すと、小雨が降っているようないないような微妙な天気で、タクシーを使うのももったいない気分。
小回りを効かせる必要も出てきそうなので、駅前の観光協会でレンタサイクルを借りました。
最近は、観光を銘打っている地域であればどこでもレンタサイクル事業を展開しているので便利になりました。
鉄道でやってきても、街の探索に不自由はしなくなったということです。





敦賀市役所に到着。
戸籍担当の窓口は、正面玄関を入ってすぐのところにあって、いろいろと目的を説明したら、親切に申請方法を教えてくれました。
敦賀市役所市民課の皆さん、ありがとうございました。



□     □     □



さて、前回の記事で整理したミッションのおさらいです。

①曽祖父の改正原戸籍又は除籍の謄本を敦賀市役所でもらう
②ついでに曽祖父のさらに先代の除籍謄本も敦賀市役所で探してもらう
③本籍地とされている「敦賀町大黒○○○番地」が今のどこなのかを“敦賀のどこか”で調べる

このうち①と②をここ市役所で行うこととなります。
③は後回しです。
当方の戸籍謄本と当方の父親の戸籍謄本も持参していましたのでこれらと、それから運転免許証を添えて、申請書にハンコを押して窓口に提出。
直系であることを証明しないと申請が通らない、ということは予習していました。
窓口の方には、②はないかもしれないと告げられながらも、無事に受理していただきました。





待合席に座り、待つこと15分くらいだったでしょうか。
病院の会計待ちのようにしていたら、自分の名前を呼ばれました。
どうでもいいことですが、越前・敦賀の市役所で、カウンターから自分の名前を呼ばれる体験は、まさに非日常(笑)
もう、どんなことでも感動してしまう旅行でした。


脱線しました。

そこで交付を受けた謄本は、なんと2つ!
①だけでなく、無理ではと告げられていた②まで存在したのです。


②については、曽祖父の先代が戸主の除籍謄本ですから、さらにその先代(前戸主)の「名前」まで遡れました。





曽祖父の先代は天保とか弘化という時代の生まれであることまで記載されていて、少しビビってしまいました。
さらにその先代は…生年月日まではわかりませんでしたが、おそらくそれは1800年代前半なのでしょう。
いずれにしろ、曽祖父の先代も敦賀郡の出身だということで、我が家のルーツはこの地にあるということがはっきりしました。



問題なのは①です。



曽祖父が戸主となっている改正原戸籍が登場。
例の昭和27年製「オール手書き謄本」の元となったものと思われます。
やはり手書き謄本にはその時点で除籍となった内容が記載されていなかったようで、とにかく知らない情報がワンサカ。
そして、そこから読み取れる曽祖父の経歴は、当方の予想を越えたものでした…。



(1)略歴をつくって見てみると…

解読した情報を「曽祖父に起きたイベント」という形に並べ替えて簡単に記してみたら、以下のようになりました。

0歳・明治5年3月14日 出生
25歳・明治30年1月6日 婚姻
26歳・明治31年10月10日 長男出生
28歳・明治33年3月8日 改名
29歳・明治34年4月28日 長女出生
32歳・明治37年8月31日 次男出生(石川県金沢市で受付)
34歳・明治39年12月8日 三男出生(石川県金沢市で受付)
37歳・明治41年12月23日 四男出生
38歳・明治43年2月15日 五男出生(神奈川県鎌倉郡小坂村外一ヶ村組合で受付)
38歳・明治43年7月4日 父死亡(神奈川県鎌倉郡小坂村で受付)により戸主となる
39歳・明治44年7月22日 五男死亡
39歳・明治44年8月31日 六男出生
42歳・大正3年2月2日 次女出生
42歳・大正3年3月9日 六男死亡
43歳・大正4年7月5日 次女死亡(朝鮮平壌府竹園町1番地に於いて受付)
44歳・大正5年7月24日 七男出生(朝鮮咸鏡南道元山府館橋洞鉄道官舎3号の2に於いて受付)
45歳・大正6年10月13日 七男死亡(朝鮮元山鉄道社宅医務室に於いて受付)
46歳・大正7年3月28日 三女出生(朝鮮慶尚南道釜山府草梁洞43-4に於いて受付)
49歳・大正10年3月29日 四女出生(朝鮮平壌府竹園町1番地に於いて受付)
85歳・昭和32年5月30日 熊本県山鹿市南島○○○番地で死亡

なお、49歳以降の足跡は戸籍上で確認することができませんでした。
生まれた子どもたちの、その後の戸籍記載内容で類推できそうですが、それでは検証にならないのでやめておきます。



(2)曽祖父はナニモノ?

さて、43歳から49歳の略歴を見ると、朝鮮半島の地名が続出しており、特に当方が祖母から聞かされていた「平壌」という地名も確認することができました。




「平壌府竹園町1番地」というのは鉄道官舎があった番地のようで(よその方のブログを拝見しました)、その後に続く地名にも「鉄道官舎」「鉄道社宅」とはっきり記載されていました。
おそらく46歳の釜山の土地もそうなんでしょう。
「朝鮮総督府鉄道」の仕事をして、半島の各地を転々としていた、ということのようです。
当方の祖母が言っていたことは、「平壌駅長」であることを置いておいて、概ね事実だったということになります。
ふえー、そうだったのかー。

でも、そうだとすると…
32歳と34歳のところに「石川県金沢市」、さらに38歳のところに「神奈川県鎌倉郡小坂村」という地名があって、これがどうしてもひっかかるんです。
ちなみに後者については、現在の大船にあたるようです。

明治時代ですから、現代のように簡単に転職することなんてありません。
仮に転職していたとしても、その転職先が「朝鮮半島の鉄道員」ですから、それではあまりにも不自然。
だって、そんなところにまで行く理由がないですもん。
しかも、いきなり「官舎」に入居しているのですから、これは普通じゃない。

したがって、石川県金沢市でも、神奈川県鎌倉郡小坂村(大船)でも「鉄道員」あるいは「逓信省職員」として赴任していた、つまり、曽祖父は鉄道員を生業としていたと考える方が妥当だと思いました。



(3)仮に鉄道員であったとして…

鉄道員であったと仮定すると、もう一つの謎が生まれます。
それは「どういう鉄道員だったのか」ということ、なんです。

「金沢」ですから、たとえどんな職種であったとしても、敦賀のような北陸地方で鉄道の仕事に就けば、同地方の鉄道の拠点だったと思われるその地へ赴任することはあったのではないかと、まあ何となく分かるんです。
「金沢鉄道管理局」があった場所ですから。
だから、金沢市にいた事実にはあまりひっかかりがありません。





しかし、今よりも交通が不便で、移動が大変であった明治時代に、実の父親を連れて(おそらく一家で)敦賀(又は金沢)から神奈川県の大船まで赴任している、その理由はどー考えてもよくわからない。
それなりの訳があって、遠くの地へ行くよう命じる辞令が発出されたのではないか。
じゃあ、土地鑑もないはずの大船に赴任しなければならなかった訳って何?
なんで大船? なんで小坂村?

ちなみに、大船「駅」の開業は1888(明治21)年。
横須賀線の大船-横須賀間開業が1889(明治22)年のことで、その1年前のことでした。
ただ、曽祖父がその地へ行ったのは、1907~1910(明治40~43)年頃ですから、開業よりも20年以上も後のことです。
やっぱり謎。

駅務なのか、それとも鉄道技師なのか、そういう違いだけでも判ればいいのですが。
どうもこの辺がモヤモヤしていて、自分の趣味を呪います。
なお、韓国併合後、朝鮮総督府鉄道は半島内の各地方への鉄道敷設を進めていました。


もし、この記事をご覧になって、何か思い当たることがある方がおられましたら是非情報をお寄せください
(といっても時代が古すぎて分かる訳がありませんよね。あはははは)。



□      □      □



時代はまさに『坂の上の雲』の頃。
明治維新と共に生まれて、文明開化の波と共に鉄道員として日本の青春時代を駆け抜けていったのでしょうか。
敦賀に鉄道が敷かれたのは1882(明治15)年3月10日で、北陸本線洞道口(柳ヶ瀬トンネル西口)-金ヶ崎(1919年に「敦賀港」に改称)間の開通とともに、その中間駅として敦賀駅が開業しています(出典:『鉄道ピクトリアル』№821)。
おそらく曽祖父が10歳の頃。
当方も、鉄道模型を始めたのが9歳の頃ですから、多感な頃に珍しい陸蒸気を見て、何らかのテツ・スイッチが入っちゃったのかな?
もっとも、この時代の西洋文明は「家族を養っていく手段」として見つめられていたような気もします。
いずれにしても、妄想は膨らむばかり。



また、歴史的背景から見てみると、子(つまり当方の祖父の兄弟たち)が生まれても次々と他界している点がとても気になりました。
特に1910(明治43)年・韓国併合後の朝鮮半島は、まだまだ公衆衛生が不安定だったそうで、腸チフスやコレラなどが大流行していたそうです。
家族を連れて朝鮮半島に渡り、さらにそこで子をもうけても次々と命を落としていった、その経緯が詳細にわかってしまい、時代の暗さ、厳しさを考えてしまいました。

ちなみに、次女が亡くなった後で三女が生まれていますけど、三女の名前は次女のそれでした。
次女を失ったことがさぞかし無念だったのでしょう。
戸籍というツールで感情のようなことまでわかってしまうという事実そのものが、当方にとっての「発見」となりました。


「曽祖父」や「鉄道」というキーワードに引っかかりながら探索をする気になりました。
しかし、敦賀市役所での発見の後は、徐々に「明治から大正にかけて大冒険をした1人の日本人」という捉え方にシフトしていき、ごく一般論的にこの人物に興味がわいてきました。
何とかしてこの人物像にもう少し迫ってみたい。
ライフワークになりそうな予感がしています。





それから「大黒」という土地については、レンタサイクルで敦賀市役所から敦賀市立図書館に急行して、司書さんの協力を仰ぎながら解読することに成功しました。





現在の津内一丁目付近に該当するとのことであり、幸いなことに1945(昭和20)年の敦賀空襲直前の住宅地図(記憶復元による)も出てきたため、「◯◯◯番地」が現在のどこに当たるのか、その特定にも成功しました。
この頃になると、その番地にはもう別の家族が住んでいたようで、その名はそこにありませんでした。

それにしても、図書館には司書さんが必要ですね。
行政が安易な発想で民間にアウトソーシングしてしまうトレンドには非常に危機感を覚えます。

これにてミッション③もクリア。





その場所へレンタサイクルで急行し、現在の様子をパチリと撮影しました。
おそらく、曽祖父一家は、大船に向かったその時点で敦賀を引き払ってしまったと思われます。
父親は、その大船でこの世を去っていました。


タイミングよく先月の彼岸のときに、敦賀市役所で交付してもらった謄本と共に、当方が作成した簡易な家系図を持参して、叔父宅を訪問。
敦賀プランの復命をしてミッション・コンプリートとなりました。
一番記憶を持っているはずの叔父ですら「えー、ホントかよ」と大声を出していましたから、まずは成功したんだと思います。
知らないことばかりだったようで、なんとなくニヤけていましたから(笑)
曽祖父について「大陸で終戦を迎えたため、それまでの財を失ってカバンひとつで長男のいる九州に戻ったと聞いたことが…」と、叔父からはそんなコメントがあったことも付け加えておきます。





こんな敦賀の風景の中に、明治時代の生活があったのだと想像することになりました。
旅のラストミッションとしては「特上」だったような気がします。

フィールドワークはしてみるもの。
座っていては何も解決しません(もちろん例外もありますよ)


(あと1回だけ、つづきまーす)


  1. 2018/04/05(木) 00:15:00|
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敦賀で待つもの

「湖西を巡って、再び京都へ」編からつづく)


3月1日(木)。

旅の最終日である5日目は、京都から離れる行程で、夜遅くには帰宅するプラン。
数日間お世話になった五条のホテルを、寂しい気持ちを抑えながらチェックアウトして、京都駅へ向かいました。

仕方がありません。
旅はいつか終わるのです。
また訪れることを胸に刻んで、関西の風景とは「ひとまずお別れ」としました。





しかしまあ、京都駅の上空があやしいったらありゃしない。
実はこのとき、爆弾低気圧が日本列島を襲っていました。
昨夜、河原町を撤収したその直後から猛烈な雨となったようで、一晩中雨だったみたいなんです。
「みたい」というのは、朝になったらとりあえずは関西地方を抜けて関東へ襲来していたからです。
空があやしくて、まだまだ風の強さを感じましたが、傘を持たないで旅行を続けられそうなことに「ホッとしなくてはいけないな」と、そう思うことにしました。




さて、5日目だけはテーマが違うようなことを予告していましたので、その辺からお話しなければなりません…



□      □      □



どちらの家でも、正月になると親族、親せきが集まって「過去を遡るとこういう人がいた」とか「祖先はこんな人だった」とか、そうした過去の話題で盛り上がることがあるのかな、又はあったんではないかなと思います。

当方も、正月になる度に叔父の家に行っては、これまでにそうした話題をさんざん聞かされてきたものです。

そうした話題の中で、ひと際リアルな内容だったのが、亡くなった祖母から聞かされた話でした。
小学生の頃から聞かされていたその内容は、当方の曽祖父(亡くなった祖母からすれば義理の父)にまつわるエピソード、それも職業に関する話で「戦争前、平壌駅(今の北朝鮮)の駅長をしていた」というもの。
ホンマかいな???

当方がこうした趣味をやっているから、気をつかってそんな風に話を盛っているのかなと半信半疑で聞いていました。
しかし、1997(平成9)年に祖母が亡くなってからも、叔父や叔母から出てくる話題はそのことばかり。
始末の悪いことに、その伝説には証拠がなくて、いつも「~だったらしいんだよね」という語尾が付いておしまいになるから余計に気になります。

なんでこんな伝説みたいな話になってしまったのか。

その原因は、当方の祖父が早い時期にその家(曽祖父)からいわゆる“ドロップアウト”をしたことにあるらしく、当方の叔父や父親の世代(曽祖父本人から見て孫の世代)は「ほとんど何も知らないし、会ったこともない」んだとか。
戦前の日本にはよくあったようです、そんなことが。



そんなこんなで年月が経ち、数年前だったでしょうか、唐突に曽祖父が戸主となっている戸籍謄本(のコピー)を、叔父だったか父親からだったか忘れましたが、渡されました。
どういう訳か叔父が持っていたそうです。

謄本の発行は昭和27年で、全て手書きで一気に書き写された様子(筆跡が全て同じでした)。
コピー機なんてありませんから、そりゃそうでしょう。





さて、問題はその本籍地です。
「福井県敦賀郡敦賀町大黒◯◯◯番地」となっています。

昭和30年代初頭までは叔父の本籍地でもあったそうなんですが、当の叔父本人は東京生まれですから、知る由もない土地が本籍であることに面倒を覚え、その頃(昭和31年)に東京へ本籍を移したんだとか。
こんな経緯もあって、東京や千葉で生まれた叔父や父親たちも、この敦賀という土地にどういう意味のあるのか、さっぱりわからないそうなんです。
さらに厄介なことに、今の敦賀市には「大黒」という町名が存在しない。
一体ココはどこ?

さらにさらに、この謄本は昭和27年時点でのものであり、それ以前に除籍となった情報が全く含まれていない可能性が高い…。
もしかしたら、謄本の元となった改正原戸籍は存在しているのではないか…。
だとすれば、「鉄道員だった」という曽祖父に関する情報が今よりもクリアになるはず…。



年寄連中で「今度みんなで敦賀に行こうか」とかめでたいことを言っていたのが、この正月でした。
でも、行くにしたって何をしに行くのかさっぱりわからない様子なので、どうも危なっかしい。
空振りの温泉旅行になることは必定のようでした。
それならば、今回の旅の最後に「敦賀プラン」をくっつけて、何か手掛かりでも探してみようかと。
次第にそう考えるようになり…

今回の旅のプランは、このように「関西地方の鉄道を乗りまくる」という動機に、「敦賀探索」という課題が合流することでようやく納得できる形に完成したのでした。
旅程を組むときにはいつもラストに気分が高まるイベントを組みたくなり、そこに悩みます。
しょんぼりと帰り道につくのも嫌じゃないですか、ねぇ。



というわけで、この旅のラストミッションです。
①曽祖父の改正原戸籍又は除籍の謄本を敦賀市役所でもらう
②ついでに曽祖父のさらに先代の除籍謄本も敦賀市役所で探してもらう
③本籍地とされている「敦賀町大黒○○○番地」が今のどこなのかを“敦賀のどこか”で調べる


パックツアーでの旅であることは最初に申し上げたとおり。
ですからこの日は、京都から新横浜までの「のぞみ254号」の切符を持っていました。
敦賀まで行って、再び京都に戻るのも芸がないので、それなら在来線で名古屋まで行ってみようかなと。
313系で関ヶ原を越えるなんて、なかなかできない贅沢なミニトリップじゃないですか。
「のぞみ254号」は名古屋発が21時近くですから、それまでに敦賀から移動を終えれば大丈夫、と踏みました。



□      □      □





京都から敦賀へ向かうので、自然にJR湖西線の旅になりました。
湖西線にはきちんと乗ったことがなく、おそらく特急列車で通過したこともないはず。
初乗りなら特急ではなくて新快速で行こうと思っていたら、件の爆弾低気圧の影響で「サンダーバード」「しらさぎ」が終日運休となってしまいました。
色気を出して「サンダーバード」の指定席券を買っていたら、この仕打ちをくらっていた訳で、この日の調査が空振りに終わる予感に襲われていたことでしょう。
地域観察は“快速列車まで”に限ります。
あ、この日の京都から名古屋までの運賃は全てオレンジカードでした。
あはははは。

新快速も20分の遅れということですが「それならば、列車ウォッチングてもするか」とフラフラし始めました。





JR嵯峨野線(山陰本線)ホームには287系が入線してきました。
かわいそうなことに「はるか」も大阪で架線支障(ビニールが引っかかった?)があったそうで全面運休。
駅員さん達はカタコトで関空へ向かう訪日客に「プリーズ、エクスチェンジ、オーサカループライン…」などと案内していて、なかなか殺伐とした英会話スクールの雰囲気でした。





JR嵯峨野線で活躍する221系リニューアル車。
リニューアル車には1日目にお世話になりました。
30年を迎える車齢ですけど、まだまだしばらくは活躍していそうです。
もし引退時期が決まったら、泣きながらまた乗りに来ちゃうかも。





かつての田舎くさい山陰本線ホームの面影はなにもなく、しいて言えば線路とホームの本数くらいでしょうか。
ここから京都中央郵便局の建物がバッチリ見えていたのに、今では天井が蓋でおおわれているのです。
いにしえのキハ58、キハ181、DD51と50系客車…
排気ガスだらけのホームで、だけどアイドリング音はいつも響いていて、不思議なことに京都駅で最も活気のある頭端式ホームでした。
どれもこれもカトーの模型で再現できそうです。





架線ばっかりの中を、たったの4両編成のキハ85系が走り抜けてきました。
当然ながら気動車ですので、架線には何にも触れるものがありません。
短い編成はまるで大海を漂う木の葉のようです。

「アーバンネットワーク」なんて言いながら、このエリアには未だに気動車が走っていますから、おもしろいですよねー。
東京23区内から気動車が消えたのは80年代初めの頃でした。
こういうギャップが乗り鉄流の観察です。

爆弾低気圧の影響があっても、東海エリアへ帰還することが最大のミッションでありましょうから、たくましく運行していました。






長い0番線ホームにたった4両のキハ85系。
「そうか、キハ85系も223系とかと一緒に遊んでもいいのか」と模型的な視点でニンマリした瞬間でした。
JR時代の車両も組み合わせがいろいろなんです。

そろそろ引退時期が見えてきたキハ85系です。
屋根上の明かり取り窓が汚れまくっていたんですが、それでいいんでしょうか。





また気動車がやってきました。
今度はHOT7000系「スーパーはくと」用特急形気動車。
気動車なのに最も特急らしいフォルムで、昔のスーパーカーのようなスタイル。
これ、Nゲージで安定的に供給されるといいですよね。
マイクロエース製品を持っていますが、それだけではちょっと不安です。





そして、223系2000番台。
行先が「草津」になっていますけど、確かこれに乗ったような。
京都で切り離して、前4両だけで湖西線へ入っていく運用でした。
京都分割は珍しい運用だとか聞きますけど、どうなんでしょう。



そしていよいよ「関西」ともお別れです。
ひとり旅でしたけど、楽しかったなぁ。






高速で走る湖西線の車窓からは、爆弾低気圧が去った後の琵琶湖が見えました。
水面がキラキラしていて、車窓をおみやげで持ち帰るとすれば上出来と言えましょう。
京阪石山坂本線と湖西線の車窓を持ち帰ることができました。







湖北地方に差し掛かりました。
晴れてはいないんだけど、この季節にこの曇り空が切なくてたまらないんです。

そして、かつては北海道のニセコと並ぶ珍しいカタカナ駅名だったマキノ。
この新快速からも、メタセコイア並木が見えて、2014年の夏の旅を思い出してみたり。
湖西線ではとても豊かな時間を過ごせました。



モーター音を甲高く鳴らしながら北を目指す4両編成の223系2000番台は「ガラガラ」。
車両はアーバンネットワークの主力ですが、その車内がどこまでもローカルでした。
反転シートをボックス状にして足を投げ出して寝ている人もいたりして、まるで国鉄時代。
走行距離が長いので、末端輸送は都心利用者には想像できないものになっているようです。
当方は、この乗車体験をもって、223系2000番台や225系100番台の4両編成のイメージを「ローカル線の車両」に書き換えてしまいました。
Nゲージでの新快速の遊び方にも別の展開が生まれそうです。


山が白く見えてきて、越前の国へ。
その先には何らかの情報が待っているのかなと思いながら、湖北から北陸へ向かう風景にも深く酔っていた、そんな場面でした。


(つづきまーす)


  1. 2018/04/03(火) 00:01:00|
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マイテ58-1


久しぶりの投稿になりました
 線路際の住民です、
何時もより寒い冬から駆け足で春が
やって参りました。
  
 帰宅するとホビーセンターカトーから予約した 
特製品 マイテ58-1が届いてました、
気がつけば発売日だったんですね。

青大将 はとセットの再生産に合わせた
企画でしょうか、スハ44系つばめ号セットと
一緒に走らせる事を前提に号車番号が
印刷されてます。

よく見るとサボが「つばめ」ですね、
東シナ所属のマイテ58-1「つばめ」って
あったのでしょうか?代走くらいは 
あったかもしれませんね!

カトーから マイテ49が製品化されておりました
かなり前のモノで事実上絶版状態ですから 
特急に繋げるというよりは、イベント列車的に
仕立てた方が楽しいでしょう、
流石にセットのテールマーク、つばめ、はと
 だけでなく やまぐち とか北びわこ があれば、
凄い妄想をさせてしまうところですが…




ホビーセンターカトー京都駅店の特製品を
見ていると、ホントに好きな人が中にいるのね~
と思うような エグいモノを出して来ます、次は何が
出て来るのか気になります。

でもしばらくはこの車両にドップリとハマりそうな予感がします。
  1. 2018/04/02(月) 18:44:44|
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