しなのさかいの駅前広場

「トイレ」が付く製品名はあんまりよろしくないですね。

関東者なのに221系が好きであるというその理由

おはようございます。しなのさかいです。




そろそろ、カトーの221系リニューアル車が鶴ヶ島の工場から出荷され、店頭に並び始めている頃合でしょうか。
221系の「旧製品」は1990年代初期に発売されてから、その後にJRマークの印刷、スカートと台車のパーツ更新、セット構成の見直しが行われましたが、基本的には当初の設計のままで四半世紀を乗り越えてきたもの。
ずいぶんとお世話になった模型でした。
この辺の話題は後ほどに回すこととしましょう。


さて、この221系。
不思議なことに、関東平野に暮らす1人の人間が、民営化直後のJR西日本〈アーバンネットワーク〉に興味を持つきっかけになった車両であり、30年近く、自分の手元に置く模型のラインナップにおいて欠かすことができない車種となり続けています。
それはなぜか… というのが本稿のテーマです。





数年前、ロマンスカーの中で謎のお友達の座間猫さんから譲ってもらった、221系のデビュー時のパンフレットを引っ張り出しました。
我が家にはこうした各形式・車両のデビュー時のパンフレットがたくさんあり、その中の一つとして収めさせてもらったもの。
表紙のモデルさんの格好から、なんとなくバブル期の空気感が伝わってきます。

残念ながら中身まではお見せできませんが、なんと言いますか、その頃にもうデビューしていたJR東日本の651系やJR九州の783系などと比べても、重みのある雰囲気を感じていました。
内装はシックに落ち着いていて、それまでの近郊形とは全く別物。
それでいて特急料金が不要なのですから「関西の方が民営化の波ですごいことをやっているじゃない」と思ったものでした。
庶民が日常的に乗る車両だったから、なおさらだった訳です。





1990年3月21日 新大阪

おそらく「初めて221系を目撃したときの1枚」のはずで、デビューから1年が過ぎた頃。
新宮鈍行(165系6両編成)に乗る直前の目撃でした。
でもまぁ、これはただ単に「見た」というだけの話。




ところで、1980年代の終わりから1990年代の前半にかけて、この頃は「青春18きっぷ」や周遊券の利用が自分にとっての全盛期でした。
そして、大阪へ行くときは、決まって“大垣夜行”を利用していたのです。




1990年7月23日 東京

懐かしい一段下降窓ですよ。
このときも「京阪神ミニ周遊券」を使って、夏休みに入ったばかりの東京駅ホームに立ちました。
文字通り京阪神をあちこち行ってみようという魂胆で、友人数人を引き連れての旅立ちでした。
1980年代から何度か「18きっぷ」を利用してきた身としては、この頃すでに、夏休みの大垣夜行がいかに恐ろしいことになっているかを十分理解しており、その回避策として「京阪神ミニ」+「サロ165」は必須としていたのです。
それでも念には念を入れ、夕方17時からホームに並ぶことは怠りませんでした。
大垣までとはいえ、結局は座席が指定されないグリーン券でしたから。
座れなければどうしようもなかったのです。


やがて発車時刻が迫るにつれ、ホーム上は通勤客と若者のグループが入り混じって大混雑。
入線した165系はデッキにも隙間がないくらいヒドイ有様で、非情にもそのまま大垣へ向けて出発。
サロ165にいると、この地獄絵巻を貫通扉の曇りガラス越しに感じ取ることができ(突っ走った手とかが見えるのです)、それは居心地の悪い、寒気を感じたものでした。
朝のラッシュ並の混雑のまま名古屋まで下るという荒行は、並大抵のことではありません。




問題はその翌朝。
そんな“18キッパー”は、いわゆる「大垣ダッシュ」をして一刻も早く西へ向かう傾向にありました。
165系から今度は113系へ。
座席数も少なくなり、東京からの立ちっぱなしを継続しなきゃならない若者も多かったことでしょう。

しかし「別に急がない」のであれば、大垣で一呼吸置いて、次の次くらいの列車を選べばよかったのです。





1990年7月24日 米原

実は(別に秘密のことでもなんでもありませんが)そうすることで、米原で始発入線待機している221系に乗ることができたのでした。
しかもガラガラで、この車内設備でも料金はもちろんタダ。

大垣夜行の余波が完全に消えてしまった時間帯に見る221系はとても輝いて見えたもので、関東者であるのに221系ファンでいる人の中には、当方のように、こんな手順を踏んでそうなった方もいたんじゃないかなと思った次第です。
「スゲえな、西日本」
本当にそう思ったのでした。
221系を外観だけでなく乗車体験から捉えてファンになってしまった、そんなメカニズムのお話でした。





1990年7月25日 法隆寺

ちなみに翌日は「大和路快速」で再び221系に酔いしれていました。
台車にヨーダンパが取り付けられるはるか前で、前面幕も英語表記が添えられていません。
スカートもデビュー時のショートタイプのままで、こちらの方が“軽快さ”がある前面でした。
こいつが120㎞/hで山間部の多い関西本線を爆速するのですから、カルチャーショックが起こるというもので、しかも4(221系)+2(220系)=6という奇妙な編成であったところもショックでしたね。
220系はとうとう模型化されませんでした。





1991年11月8日 湊町

翌年も221系を見に行ったという証拠写真です。
まだ地上に存在していた頃の「湊町」。
103系は冷房改造もされていないようです。
この頃の奈良の103系には前面がウグイス色のままで好きだったのですが、いつしか野暮な白帯が入れられるようになってしまいました。
残念。





1991年11月9日 奈良

これは以前ご覧いただいた奈良での写真。
空がオレンジ色に染まっているのはフィリピンのピナツボ火山の噴火の影響だと後日に知りました。
奈良を観光した後も221系で大阪の安宿へ引き返すところ。
今なら、趣向を変えて近鉄奈良線で帰れば良かったのに…と思ったりしますが、とにかくこの頃は何回も221系に乗って、その乗車体験を東京に持ち帰るミッションに燃えていたんだと思います。





1997年12月14日 新今宮

それから6年後の冬にも大阪の地に降り立ちました。
221系に大きな変化はなく、強いて挙げれば「新快速」の運用に223系1000番台が入り始めた頃というところでしょうか。



それから後は、関西方面に足を踏み入れることがなくなり、雑誌などの情報で221系の形態変化、新快速運用からの離脱などといった情報を目にするだけの年月となりました。
そして極め付けが、今般のリニューアル工事。
ライトの光り方もそうだけど、併結を考慮した4両編成には運転台脇に転落防止幌が取り付けられました。
この施しは、安全措置であるとはいえ、221系の前面のカッコイイ傾斜角度を殺すような措置に見えてしまい、かなりのショックでした。
225系ではその角度が存在すらしていませんから。





2018年2月25日 木津




2018年2月25日 奈良

しかしながら、2018年に入ってこうして約20年ぶりに221系との再会を果たすと、もうそんなことはどうでもよくなり(笑)、それよりもデビューから30年も経つというのにカラーリングも、基本的な外観もそのままであり続けたところに感激してしまったのです。





2018年8月23日 京都





2018年8月25日 京橋

今年の夏にも、下の娘を連れて乗ってきた221系。
娘に大和路快速の乗車体験をさせるならば、キチンと大阪環状線内から乗ろうと思い、北新地からわざわざ京橋へ転進。
ここから奈良へは1時間のショートトリップでした。


30年も経つというのに、そのままの格好でそのままの運用(大和路快速)に就いているのですから面白いですよね。
もし、自分がこの趣味を持った頃に、そこから30年前の電車を挙げてみたとすれば、それは恐ろしいほどの古典的なものばかりだったはず。
221系は1989年のデビューでありながら、デザインに今どきの車両との隔たりを感じません。
当時のデザインが余程優れていたのか、それともここ30年の工業デザインの進歩が思いの外緩いのか、興味は尽きないのであります。
かの水戸岡氏が西武の新型特急のデザインを賞賛しているように、鉄道に関する工業デザインの世界には、突き抜けるような狂気が排除されやすいのかもしれませんね。
その点、南海のラピートにはその狂気がありました。


週末にはリニューアル車が入線しそうです。
既に手元にあるアーバンネットワークの車両たちと共に、あれこれ考えてみようと思います。

ではまた。

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  1. 2018/11/28(水) 08:30:00|
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