しなのさかいの駅前広場

きのくにシーサイドがバラシ売りに

敦賀で待つもの

「湖西を巡って、再び京都へ」編からつづく)


3月1日(木)。

旅の最終日である5日目は、京都から離れる行程で、夜遅くには帰宅するプラン。
数日間お世話になった五条のホテルを、寂しい気持ちを抑えながらチェックアウトして、京都駅へ向かいました。

仕方がありません。
旅はいつか終わるのです。
また訪れることを胸に刻んで、関西の風景とは「ひとまずお別れ」としました。





しかしまあ、京都駅の上空があやしいったらありゃしない。
実はこのとき、爆弾低気圧が日本列島を襲っていました。
昨夜、河原町を撤収したその直後から猛烈な雨となったようで、一晩中雨だったみたいなんです。
「みたい」というのは、朝になったらとりあえずは関西地方を抜けて関東へ襲来していたからです。
空があやしくて、まだまだ風の強さを感じましたが、傘を持たないで旅行を続けられそうなことに「ホッとしなくてはいけないな」と、そう思うことにしました。




さて、5日目だけはテーマが違うようなことを予告していましたので、その辺からお話しなければなりません…



□      □      □



どちらの家でも、正月になると親族、親せきが集まって「過去を遡るとこういう人がいた」とか「祖先はこんな人だった」とか、そうした過去の話題で盛り上がることがあるのかな、又はあったんではないかなと思います。

当方も、正月になる度に叔父の家に行っては、これまでにそうした話題をさんざん聞かされてきたものです。

そうした話題の中で、ひと際リアルな内容だったのが、亡くなった祖母から聞かされた話でした。
小学生の頃から聞かされていたその内容は、当方の曽祖父(亡くなった祖母からすれば義理の父)にまつわるエピソード、それも職業に関する話で「戦争前、平壌駅(今の北朝鮮)の駅長をしていた」というもの。
ホンマかいな???

当方がこうした趣味をやっているから、気をつかってそんな風に話を盛っているのかなと半信半疑で聞いていました。
しかし、1997(平成9)年に祖母が亡くなってからも、叔父や叔母から出てくる話題はそのことばかり。
始末の悪いことに、その伝説には証拠がなくて、いつも「~だったらしいんだよね」という語尾が付いておしまいになるから余計に気になります。

なんでこんな伝説みたいな話になってしまったのか。

その原因は、当方の祖父が早い時期にその家(曽祖父)からいわゆる“ドロップアウト”をしたことにあるらしく、当方の叔父や父親の世代(曽祖父本人から見て孫の世代)は「ほとんど何も知らないし、会ったこともない」んだとか。
戦前の日本にはよくあったようです、そんなことが。



そんなこんなで年月が経ち、数年前だったでしょうか、唐突に曽祖父が戸主となっている戸籍謄本(のコピー)を、叔父だったか父親からだったか忘れましたが、渡されました。
どういう訳か叔父が持っていたそうです。

謄本の発行は昭和27年で、全て手書きで一気に書き写された様子(筆跡が全て同じでした)。
コピー機なんてありませんから、そりゃそうでしょう。





さて、問題はその本籍地です。
「福井県敦賀郡敦賀町大黒◯◯◯番地」となっています。

昭和30年代初頭までは叔父の本籍地でもあったそうなんですが、当の叔父本人は東京生まれですから、知る由もない土地が本籍であることに面倒を覚え、その頃(昭和31年)に東京へ本籍を移したんだとか。
こんな経緯もあって、東京や千葉で生まれた叔父や父親たちも、この敦賀という土地にどういう意味のあるのか、さっぱりわからないそうなんです。
さらに厄介なことに、今の敦賀市には「大黒」という町名が存在しない。
一体ココはどこ?

さらにさらに、この謄本は昭和27年時点でのものであり、それ以前に除籍となった情報が全く含まれていない可能性が高い…。
もしかしたら、謄本の元となった改正原戸籍は存在しているのではないか…。
だとすれば、「鉄道員だった」という曽祖父に関する情報が今よりもクリアになるはず…。



年寄連中で「今度みんなで敦賀に行こうか」とかめでたいことを言っていたのが、この正月でした。
でも、行くにしたって何をしに行くのかさっぱりわからない様子なので、どうも危なっかしい。
空振りの温泉旅行になることは必定のようでした。
それならば、今回の旅の最後に「敦賀プラン」をくっつけて、何か手掛かりでも探してみようかと。
次第にそう考えるようになり…

今回の旅のプランは、このように「関西地方の鉄道を乗りまくる」という動機に、「敦賀探索」という課題が合流することでようやく納得できる形に完成したのでした。
旅程を組むときにはいつもラストに気分が高まるイベントを組みたくなり、そこに悩みます。
しょんぼりと帰り道につくのも嫌じゃないですか、ねぇ。



というわけで、この旅のラストミッションです。
①曽祖父の改正原戸籍又は除籍の謄本を敦賀市役所でもらう
②ついでに曽祖父のさらに先代の除籍謄本も敦賀市役所で探してもらう
③本籍地とされている「敦賀町大黒○○○番地」が今のどこなのかを“敦賀のどこか”で調べる


パックツアーでの旅であることは最初に申し上げたとおり。
ですからこの日は、京都から新横浜までの「のぞみ254号」の切符を持っていました。
敦賀まで行って、再び京都に戻るのも芸がないので、それなら在来線で名古屋まで行ってみようかなと。
313系で関ヶ原を越えるなんて、なかなかできない贅沢なミニトリップじゃないですか。
「のぞみ254号」は名古屋発が21時近くですから、それまでに敦賀から移動を終えれば大丈夫、と踏みました。



□      □      □





京都から敦賀へ向かうので、自然にJR湖西線の旅になりました。
湖西線にはきちんと乗ったことがなく、おそらく特急列車で通過したこともないはず。
初乗りなら特急ではなくて新快速で行こうと思っていたら、件の爆弾低気圧の影響で「サンダーバード」「しらさぎ」が終日運休となってしまいました。
色気を出して「サンダーバード」の指定席券を買っていたら、この仕打ちをくらっていた訳で、この日の調査が空振りに終わる予感に襲われていたことでしょう。
地域観察は“快速列車まで”に限ります。
あ、この日の京都から名古屋までの運賃は全てオレンジカードでした。
あはははは。

新快速も20分の遅れということですが「それならば、列車ウォッチングてもするか」とフラフラし始めました。





JR嵯峨野線(山陰本線)ホームには287系が入線してきました。
かわいそうなことに「はるか」も大阪で架線支障(ビニールが引っかかった?)があったそうで全面運休。
駅員さん達はカタコトで関空へ向かう訪日客に「プリーズ、エクスチェンジ、オーサカループライン…」などと案内していて、なかなか殺伐とした英会話スクールの雰囲気でした。





JR嵯峨野線で活躍する221系リニューアル車。
リニューアル車には1日目にお世話になりました。
30年を迎える車齢ですけど、まだまだしばらくは活躍していそうです。
もし引退時期が決まったら、泣きながらまた乗りに来ちゃうかも。





かつての田舎くさい山陰本線ホームの面影はなにもなく、しいて言えば線路とホームの本数くらいでしょうか。
ここから京都中央郵便局の建物がバッチリ見えていたのに、今では天井が蓋でおおわれているのです。
いにしえのキハ58、キハ181、DD51と50系客車…
排気ガスだらけのホームで、だけどアイドリング音はいつも響いていて、不思議なことに京都駅で最も活気のある頭端式ホームでした。
どれもこれもカトーの模型で再現できそうです。





架線ばっかりの中を、たったの4両編成のキハ85系が走り抜けてきました。
当然ながら気動車ですので、架線には何にも触れるものがありません。
短い編成はまるで大海を漂う木の葉のようです。

「アーバンネットワーク」なんて言いながら、このエリアには未だに気動車が走っていますから、おもしろいですよねー。
東京23区内から気動車が消えたのは80年代初めの頃でした。
こういうギャップが乗り鉄流の観察です。

爆弾低気圧の影響があっても、東海エリアへ帰還することが最大のミッションでありましょうから、たくましく運行していました。






長い0番線ホームにたった4両のキハ85系。
「そうか、キハ85系も223系とかと一緒に遊んでもいいのか」と模型的な視点でニンマリした瞬間でした。
JR時代の車両も組み合わせがいろいろなんです。

そろそろ引退時期が見えてきたキハ85系です。
屋根上の明かり取り窓が汚れまくっていたんですが、それでいいんでしょうか。





また気動車がやってきました。
今度はHOT7000系「スーパーはくと」用特急形気動車。
気動車なのに最も特急らしいフォルムで、昔のスーパーカーのようなスタイル。
これ、Nゲージで安定的に供給されるといいですよね。
マイクロエース製品を持っていますが、それだけではちょっと不安です。





そして、223系2000番台。
行先が「草津」になっていますけど、確かこれに乗ったような。
京都で切り離して、前4両だけで湖西線へ入っていく運用でした。
京都分割は珍しい運用だとか聞きますけど、どうなんでしょう。



そしていよいよ「関西」ともお別れです。
ひとり旅でしたけど、楽しかったなぁ。






高速で走る湖西線の車窓からは、爆弾低気圧が去った後の琵琶湖が見えました。
水面がキラキラしていて、車窓をおみやげで持ち帰るとすれば上出来と言えましょう。
京阪石山坂本線と湖西線の車窓を持ち帰ることができました。







湖北地方に差し掛かりました。
晴れてはいないんだけど、この季節にこの曇り空が切なくてたまらないんです。

そして、かつては北海道のニセコと並ぶ珍しいカタカナ駅名だったマキノ。
この新快速からも、メタセコイア並木が見えて、2014年の夏の旅を思い出してみたり。
湖西線ではとても豊かな時間を過ごせました。



モーター音を甲高く鳴らしながら北を目指す4両編成の223系2000番台は「ガラガラ」。
車両はアーバンネットワークの主力ですが、その車内がどこまでもローカルでした。
反転シートをボックス状にして足を投げ出して寝ている人もいたりして、まるで国鉄時代。
走行距離が長いので、末端輸送は都心利用者には想像できないものになっているようです。
当方は、この乗車体験をもって、223系2000番台や225系100番台の4両編成のイメージを「ローカル線の車両」に書き換えてしまいました。
Nゲージでの新快速の遊び方にも別の展開が生まれそうです。


山が白く見えてきて、越前の国へ。
その先には何らかの情報が待っているのかなと思いながら、湖北から北陸へ向かう風景にも深く酔っていた、そんな場面でした。


(つづきまーす)


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  1. 2018/04/03(火) 00:01:00|
  2. 鉄道旅行
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