しなのさかいの駅前広場

久しぶりにワクワクする発表でした。

「神奈川県鎌倉郡小坂村」の謎

「敦賀で待つもの」編からつづく)




京都から敦賀まで、223系2000番台によるダイレクトアクセスで簡単に移動できました。
滋賀県主導による北陸本線直流化と「琵琶湖環状線」の構築はこういう利便性をもたらしていたのですね。
さらには福井県側の主導も加わって敦賀以南は交流20,000Vから直流1,500Vへの転換が行われました。
2006(平成18)年10月のことです。


駅前を見渡すと、小雨が降っているようないないような微妙な天気で、タクシーを使うのももったいない気分。
小回りを効かせる必要も出てきそうなので、駅前の観光協会でレンタサイクルを借りました。
最近は、観光を銘打っている地域であればどこでもレンタサイクル事業を展開しているので便利になりました。
鉄道でやってきても、街の探索に不自由はしなくなったということです。





敦賀市役所に到着。
戸籍担当の窓口は、正面玄関を入ってすぐのところにあって、いろいろと目的を説明したら、親切に申請方法を教えてくれました。
敦賀市役所市民課の皆さん、ありがとうございました。



□     □     □



さて、前回の記事で整理したミッションのおさらいです。

①曽祖父の改正原戸籍又は除籍の謄本を敦賀市役所でもらう
②ついでに曽祖父のさらに先代の除籍謄本も敦賀市役所で探してもらう
③本籍地とされている「敦賀町大黒○○○番地」が今のどこなのかを“敦賀のどこか”で調べる

このうち①と②をここ市役所で行うこととなります。
③は後回しです。
当方の戸籍謄本と当方の父親の戸籍謄本も持参していましたのでこれらと、それから運転免許証を添えて、申請書にハンコを押して窓口に提出。
直系であることを証明しないと申請が通らない、ということは予習していました。
窓口の方には、②はないかもしれないと告げられながらも、無事に受理していただきました。





待合席に座り、待つこと15分くらいだったでしょうか。
病院の会計待ちのようにしていたら、自分の名前を呼ばれました。
どうでもいいことですが、越前・敦賀の市役所で、カウンターから自分の名前を呼ばれる体験は、まさに非日常(笑)
もう、どんなことでも感動してしまう旅行でした。


脱線しました。

そこで交付を受けた謄本は、なんと2つ!
①だけでなく、無理ではと告げられていた②まで存在したのです。


②については、曽祖父の先代が戸主の除籍謄本ですから、さらにその先代(前戸主)の「名前」まで遡れました。





曽祖父の先代は天保とか弘化という時代の生まれであることまで記載されていて、少しビビってしまいました。
さらにその先代は…生年月日まではわかりませんでしたが、おそらくそれは1800年代前半なのでしょう。
いずれにしろ、曽祖父の先代も敦賀郡の出身だということで、我が家のルーツはこの地にあるということがはっきりしました。



問題なのは①です。



曽祖父が戸主となっている改正原戸籍が登場。
例の昭和27年製「オール手書き謄本」の元となったものと思われます。
やはり手書き謄本にはその時点で除籍となった内容が記載されていなかったようで、とにかく知らない情報がワンサカ。
そして、そこから読み取れる曽祖父の経歴は、当方の予想を越えたものでした…。



(1)略歴をつくって見てみると…

解読した情報を「曽祖父に起きたイベント」という形に並べ替えて簡単に記してみたら、以下のようになりました。

0歳・明治5年3月14日 出生
25歳・明治30年1月6日 婚姻
26歳・明治31年10月10日 長男出生
28歳・明治33年3月8日 改名
29歳・明治34年4月28日 長女出生
32歳・明治37年8月31日 次男出生(石川県金沢市で受付)
34歳・明治39年12月8日 三男出生(石川県金沢市で受付)
37歳・明治41年12月23日 四男出生
38歳・明治43年2月15日 五男出生(神奈川県鎌倉郡小坂村外一ヶ村組合で受付)
38歳・明治43年7月4日 父死亡(神奈川県鎌倉郡小坂村で受付)により戸主となる
39歳・明治44年7月22日 五男死亡
39歳・明治44年8月31日 六男出生
42歳・大正3年2月2日 次女出生
42歳・大正3年3月9日 六男死亡
43歳・大正4年7月5日 次女死亡(朝鮮平壌府竹園町1番地に於いて受付)
44歳・大正5年7月24日 七男出生(朝鮮咸鏡南道元山府館橋洞鉄道官舎3号の2に於いて受付)
45歳・大正6年10月13日 七男死亡(朝鮮元山鉄道社宅医務室に於いて受付)
46歳・大正7年3月28日 三女出生(朝鮮慶尚南道釜山府草梁洞43-4に於いて受付)
49歳・大正10年3月29日 四女出生(朝鮮平壌府竹園町1番地に於いて受付)
85歳・昭和32年5月30日 熊本県山鹿市南島○○○番地で死亡

なお、49歳以降の足跡は戸籍上で確認することができませんでした。
生まれた子どもたちの、その後の戸籍記載内容で類推できそうですが、それでは検証にならないのでやめておきます。



(2)曽祖父はナニモノ?

さて、43歳から49歳の略歴を見ると、朝鮮半島の地名が続出しており、特に当方が祖母から聞かされていた「平壌」という地名も確認することができました。




「平壌府竹園町1番地」というのは鉄道官舎があった番地のようで(よその方のブログを拝見しました)、その後に続く地名にも「鉄道官舎」「鉄道社宅」とはっきり記載されていました。
おそらく46歳の釜山の土地もそうなんでしょう。
「朝鮮総督府鉄道」の仕事をして、半島の各地を転々としていた、ということのようです。
当方の祖母が言っていたことは、「平壌駅長」であることを置いておいて、概ね事実だったということになります。
ふえー、そうだったのかー。

でも、そうだとすると…
32歳と34歳のところに「石川県金沢市」、さらに38歳のところに「神奈川県鎌倉郡小坂村」という地名があって、これがどうしてもひっかかるんです。
ちなみに後者については、現在の大船にあたるようです。

明治時代ですから、現代のように簡単に転職することなんてありません。
仮に転職していたとしても、その転職先が「朝鮮半島の鉄道員」ですから、それではあまりにも不自然。
だって、そんなところにまで行く理由がないですもん。
しかも、いきなり「官舎」に入居しているのですから、これは普通じゃない。

したがって、石川県金沢市でも、神奈川県鎌倉郡小坂村(大船)でも「鉄道員」あるいは「逓信省職員」として赴任していた、つまり、曽祖父は鉄道員を生業としていたと考える方が妥当だと思いました。



(3)仮に鉄道員であったとして…

鉄道員であったと仮定すると、もう一つの謎が生まれます。
それは「どういう鉄道員だったのか」ということ、なんです。

「金沢」ですから、たとえどんな職種であったとしても、敦賀のような北陸地方で鉄道の仕事に就けば、同地方の鉄道の拠点だったと思われるその地へ赴任することはあったのではないかと、まあ何となく分かるんです。
「金沢鉄道管理局」があった場所ですから。
だから、金沢市にいた事実にはあまりひっかかりがありません。





しかし、今よりも交通が不便で、移動が大変であった明治時代に、実の父親を連れて(おそらく一家で)敦賀(又は金沢)から神奈川県の大船まで赴任している、その理由はどー考えてもよくわからない。
それなりの訳があって、遠くの地へ行くよう命じる辞令が発出されたのではないか。
じゃあ、土地鑑もないはずの大船に赴任しなければならなかった訳って何?
なんで大船? なんで小坂村?

ちなみに、大船「駅」の開業は1888(明治21)年。
横須賀線の大船-横須賀間開業が1889(明治22)年のことで、その1年前のことでした。
ただ、曽祖父がその地へ行ったのは、1907~1910(明治40~43)年頃ですから、開業よりも20年以上も後のことです。
やっぱり謎。

駅務なのか、それとも鉄道技師なのか、そういう違いだけでも判ればいいのですが。
どうもこの辺がモヤモヤしていて、自分の趣味を呪います。
なお、韓国併合後、朝鮮総督府鉄道は半島内の各地方への鉄道敷設を進めていました。


もし、この記事をご覧になって、何か思い当たることがある方がおられましたら是非情報をお寄せください
(といっても時代が古すぎて分かる訳がありませんよね。あはははは)。



□      □      □



時代はまさに『坂の上の雲』の頃。
明治維新と共に生まれて、文明開化の波と共に鉄道員として日本の青春時代を駆け抜けていったのでしょうか。
敦賀に鉄道が敷かれたのは1882(明治15)年3月10日で、北陸本線洞道口(柳ヶ瀬トンネル西口)-金ヶ崎(1919年に「敦賀港」に改称)間の開通とともに、その中間駅として敦賀駅が開業しています(出典:『鉄道ピクトリアル』№821)。
おそらく曽祖父が10歳の頃。
当方も、鉄道模型を始めたのが9歳の頃ですから、多感な頃に珍しい陸蒸気を見て、何らかのテツ・スイッチが入っちゃったのかな?
もっとも、この時代の西洋文明は「家族を養っていく手段」として見つめられていたような気もします。
いずれにしても、妄想は膨らむばかり。



また、歴史的背景から見てみると、子(つまり当方の祖父の兄弟たち)が生まれても次々と他界している点がとても気になりました。
特に1910(明治43)年・韓国併合後の朝鮮半島は、まだまだ公衆衛生が不安定だったそうで、腸チフスやコレラなどが大流行していたそうです。
家族を連れて朝鮮半島に渡り、さらにそこで子をもうけても次々と命を落としていった、その経緯が詳細にわかってしまい、時代の暗さ、厳しさを考えてしまいました。

ちなみに、次女が亡くなった後で三女が生まれていますけど、三女の名前は次女のそれでした。
次女を失ったことがさぞかし無念だったのでしょう。
戸籍というツールで感情のようなことまでわかってしまうという事実そのものが、当方にとっての「発見」となりました。


「曽祖父」や「鉄道」というキーワードに引っかかりながら探索をする気になりました。
しかし、敦賀市役所での発見の後は、徐々に「明治から大正にかけて大冒険をした1人の日本人」という捉え方にシフトしていき、ごく一般論的にこの人物に興味がわいてきました。
何とかしてこの人物像にもう少し迫ってみたい。
ライフワークになりそうな予感がしています。





それから「大黒」という土地については、レンタサイクルで敦賀市役所から敦賀市立図書館に急行して、司書さんの協力を仰ぎながら解読することに成功しました。





現在の津内一丁目付近に該当するとのことであり、幸いなことに1945(昭和20)年の敦賀空襲直前の住宅地図(記憶復元による)も出てきたため、「◯◯◯番地」が現在のどこに当たるのか、その特定にも成功しました。
この頃になると、その番地にはもう別の家族が住んでいたようで、その名はそこにありませんでした。

それにしても、図書館には司書さんが必要ですね。
行政が安易な発想で民間にアウトソーシングしてしまうトレンドには非常に危機感を覚えます。

これにてミッション③もクリア。





その場所へレンタサイクルで急行し、現在の様子をパチリと撮影しました。
おそらく、曽祖父一家は、大船に向かったその時点で敦賀を引き払ってしまったと思われます。
父親は、その大船でこの世を去っていました。


タイミングよく先月の彼岸のときに、敦賀市役所で交付してもらった謄本と共に、当方が作成した簡易な家系図を持参して、叔父宅を訪問。
敦賀プランの復命をしてミッション・コンプリートとなりました。
一番記憶を持っているはずの叔父ですら「えー、ホントかよ」と大声を出していましたから、まずは成功したんだと思います。
知らないことばかりだったようで、なんとなくニヤけていましたから(笑)
曽祖父について「大陸で終戦を迎えたため、それまでの財を失ってカバンひとつで長男のいる九州に戻ったと聞いたことが…」と、叔父からはそんなコメントがあったことも付け加えておきます。





こんな敦賀の風景の中に、明治時代の生活があったのだと想像することになりました。
旅のラストミッションとしては「特上」だったような気がします。

フィールドワークはしてみるもの。
座っていては何も解決しません(もちろん例外もありますよ)


(あと1回だけ、つづきまーす)


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  1. 2018/04/05(木) 00:15:00|
  2. 鉄道旅行
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